SSブログ

『ALWAYS 三丁目の夕日』(監督:山崎 貴) [映画]

映画について書くのは久しぶりだ。映画を観てないってワケではなくて、2時間かそこらの暇が見事に潰れるだけで何の感想もでてこないモノばかり観ていたのだ。そんなこんなで映画館に行く気力も失せつつあった為に、公開当初から話題になっていた『ALWAYS 三丁目の夕日』も結局レンタルで済ませるコトになってしまった。率直な感想は、映画館に観に行く程の価値はないと思うが、レンタル料330円を惜しむ程でもないといったトコロだろうか。可も不可もない“なんでも鑑定団”的なマニア知識の寄せ集めのようなズルイ作りだと思った。
昭和30年代の人情味に溢れる古き良き家族を描いている作品なのだが、高度経済成長の胎動というか希望の萌芽を建設中の東京タワーに託し、時折戦争の記憶をチラつかせるベタな展開は挑戦的な感じが全くない。
それほど遠くない過去を描く作品の難しさは、観る者の生きる世界、つまり約束された(今日的な)豊かさに向かう安心感というベースの設定にある。観る者の価値観に頼り過ぎるということだ。僕の視点から云えば、今日的な安心感からしか発生し得ない郷愁や哀愁は薄っぺらいし、貧弱なストーリーも気に入らないというコトになる。
そういう点でこの作品と対照的なのはやはり崔洋一の『血と骨』だと思う。山崎における現代は「何かが欠けている豊さ」という曖昧なものであるのに対し、崔のそれは「確実に存在する絶望的な状況」というのっぴきならないものであるような気がするのだ。
だからと云って『血と骨』の方がイイというわけでもない。『ALWAYS~』は、高度経済成長を支えた世代が築き上げたものの中で暮らす僕達が忘れかけた感謝の気持ちを取り戻すきっかけになるのかもしれない。


つづく


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

『THE CORPORATION』(監督: マーク・アクバー、ジェニファー・アボット共同監督) [映画]

『華氏911』、『ボウリング・フォー・コロンバイン』など話題のドキュメンタリー映画を次々と世に輩出しているマイケル・ムーアの作品。
7月29日追記:マイケルー・ムーアはこの映画の趣旨に共鳴しインタビューに応じた単なる一出演者でした。パッケージのイメージから勘違いしてしまい、間違った内容の記事を載せてしまい申し訳ありませんでした。監督のマーク・アクバー、ジェニファー・アボットはカナダ人で、アメリカの政治とは直接関係しないものの、この映画はアメリカでも高い評価を受けてロングラン上映されており、このこと(映画の配給)にはアメリカの政権奪還を目論む民主党が深く関係しているのではないか?という思いは変わりませんし、記事の内容(映画の感想)自体には大きな変更はありませんので反省の意味も込めて、削除せずにそのまま残すことにします。:追記ココまで
共和党の支持層である石油・電力関連企業への批判を中心に構成されているところは、どうしても(アメリカの)政権奪還に心血を注ぐ民主党のプロパガンダという感も否めないが、着想、作りの点ではさすがといったところ。
ブッシュ大統領の支持率が30%を割り込み、民主党の返咲きが現実的になってきたワケだが、こうした映画の効果はどれほどのものなのだろうか?
勿論、そんなコトには触れるはずも無く、大部分は、アメリカ経済の重鎮や思想家への淡々としたインタビューによって構成されている。
企業が如何に人の目を欺き、発展途上国を食い物にし、暴利を貪ることで世界を支配するに至ったかをレポートしているのだけれど、見ていると拭いきれない違和感に包まれたような心地がしてくる。終盤でマイケル・ムーア監督が「この映画も企業の金を使って製作されているワケだが、ヤツ等(企業)はこんな映画大したことないとタカをくくっている。ヤツ等は金の為なら自分の首を絞める縄だって喜んで売るくらい思考停止の状態にある」みたいなコトを言って一応の決着をつけようとしているのだけれど、それが返って痛々しい。見ようによっては企業側の“懐の深さ”というか、自浄能力の証明に繋がるんじゃないかという気がした。自浄能力や深い懐の更に奥底で蠢く欲望を察することはできるが。。。

まぁ、ピーター・ドラッカーやミルトン・フリードマンのインタビューが聞けるだけでも一見の価値はあると思う。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

『大停電の夜に』(監督:源孝志) [映画]

12月24日、停電に見舞われた東京。交錯する老若男女12人の想いがやがて一つに収斂していく。 既視感とまではいかないが、観る前から全てのエピソードの結末がなんとなく想像できるような感じがしたのは、恐らくこの映画の原点が2003年に北米で起こった史上最大の『大停電』であり、またその記憶がアタマのどこかしらに残っていたからかもしれない。実際の大停電のニュースで印象的だったのは、9.11を経験したニューヨーカーがそれほどのパニックに陥ることもなく、其々が帰るべき場所を目指して淡々と歩いている姿だった。
『大停電の夜に』に登場する12人も、其々“帰るべき場所”や“本来あるべきところ”をもっている。日常の中では特別意識されないそれらの位置が停電という非日常的な出来事によって、まるで灯台の如き輝きを放ち、彼らを引き戻す。

ハナシは変わって、1987年、バブル経済の絶頂期。村上春樹の著した『ノルウェイの森』の主人公が最終ページで発した「今僕はどこにいるのだ?」という問いから凡そ二十年もの間、ボク達の関心は専らその位置の特定に寄せられてきた。このところ、その問いに明確なこたえを用意して描かれた作品が多くなっているような気がする。これは一日にも少し触れたことではあるが、バブル崩壊が召喚した不安の着地点を模索する試みが受け入れられているのかもしれない。或いは、日本のバブル崩壊を凌駕する9.11の衝撃によって否応なしに“帰るべき場所”の存在を思い知ったに違いないアメリカ(これは映画ばかりではないだろうが)の影響によるのかもしれない。

現段階で日本映画の見出した帰着点。それは家族や家庭といったバブル期には決して顧みられることのなかった場所であるとボクは思っている。しかし、映画のようにはいかないのが現実だ。仕事に疲れ、やっとの思いで帰り着いた我が家はまさに停電したかのように暗く、現実を直視しないように冷え切ったリビングでビールを飲む。非日常的なインパクトに因って照らし出される家庭像はノスタルジックな幻影に過ぎないというのが常ではないだろうか? かと云って、これでもかと言わんばかりに次々と現実を突きつけてくる映画なんて想像しただけでも辟易してくるけれど。。。


と、いうワケで、前置きが長くなってしまったが、『大停電の夜に』を観た率直な感想は、“ちょうど良い映画”ってところです。原田知世が特に良かった。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:映画

『ハムレット』(監督:マイケル・アルメレイダ) [映画]

前々から見よう見ようと思っていた、シェークスピアの四大悲劇の一つ『ハムレット』の現代版。舞台はニューヨーク、巨大企業の会長の不審な死に疑念を持つ息子ハムレットの前に父親の亡霊が現れ真相を語り始める。それはハムレットの叔父にあたる弟が自分を殺し、会長職のみならず妻さえも奪ったという恐ろしい話だった。

ボクは古典を現代風にリメイクした映画が結構好きなんです。長い歴史を通して分析され尽くし、或いは愛読されてきた古典に対峙する監督の心境は、多分、思い入れや愛情、尊敬の念を遥かに超えたモノなんだろうと思う。骨子を踏襲しつつも独自のアレンジを加える作業は、解体と構築を同時に進めるようなもので、徹底的な分析によって新たな切り口を発見するという学術的な素養と、歴史に名を残す優れた才能に戦いを挑む闘志が無ければ為し得ない行為なんだろうな、と。
ただし、好きと云っても、古今東西を通じて随一と評されるシェークスピアの美文を感じるには、現代風のアレンジというフィルターはどうしても高いハードルになってしまう感が否めないのも事実で、それを観て改めてシェークスピアの偉大さに感服したり、久しぶりに原作を読んでみようかなみたいな忘れかけていたワンランク上の興味へ先導してくれる役割として好きという程度のものなのだが。。。って、もしかすると、こういう作品を創る監督は観る者がそんな風にしか捉えないコトまで既にお見通しの上で、敢えてトリックスター的なポジションに身を置き、自虐と優越感のちょうど中間あたりの席で観客やら評論家の評価に耳を傾けているのかもしれない。だとしたら、尚更ボクは好きだ。
とかなんとか、いろんなコトを勘ぐりながら映画を観るのもたまにはイイ。
兎に角、一度じっくりとハナシを聞いてみたい人種である。


シェークスピアの戯曲を現代風にアレンジした映画は、今思いつくまま挙げても、『ロミオ&ジュリエット』(監督:バズ・ラーマン) 、『タイタス』(監督:ジュリー・ティモア)がある。


nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(2) 
共通テーマ:映画

『恋愛小説』 [映画]

レンタルしたままになっていたDVDを観る。『恋愛小説』(監督:森淳一)
結論から云えば、ボクは好き。原作は金城一紀の『対話篇』に収録された中篇。内容は愛する人達が次々と死んでいくことから、自分を死神と呼び心を閉ざして生きる青年の悲恋という、実にオーソドックスなハナシ。オーソドックスから逸脱することなく読者や観衆、或いは聴衆に深い感動を与えることのできる表現者が少なくなっている気がするなか光る作品(ハナシのスジも映像も)だと思う。

実を云うと、何年か前に映画館で『GO』(監督:行定勲)を観たきり金城一紀の本は一冊も読んだことが無いのだけど、この『恋愛小説』を観て感じたのは、数年前から比べれば確実に洗練されているというか、風格のようなものが備わってきたんじゃないかなってことです。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。