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どうして人を殺してはいけないのか? [社会]

内田樹のブログに影響されて考える。内田さんの本は『寝ながら学べる構造主義』を文字通り寝ながら斜め読みした程度で、正直云うと彼の専門領域が何であったかさえ殆どアタマに残っていないのだが。。。

まぁ、その辺の事情はさておき、本題へ。“何故人を殺してはいけないか?”という一見時代遅れとも云えるテーマには少なからず興味があった。僕自身二十歳過ぎくらいまで、何故人を殺していけないのかよく分からなったのだ。とは云っても、今改めて正当な理由を論理的に述べよと言われても応えに窮するわけだが、、、兎に角今の考えをササッと書いてみようと思う。
先に僕の辿り着いた結論から云えば、そもそも社会というフィールドにおいては「何故人を殺してはいけないか?」という疑問自体がナンセンスであるということ。こういう云い方をすると、一昔前のカタイ考えの人間と思われる方もいるかも知れないが、まあそれはそれで置いておいて、ハナシを先に進める。まず、(このブログでは再三再四に渡って書いていることなのだけど)その疑問が言葉という“社会的手段”を用いて生み出され、伝達されている点に注目したい。つまり、この疑問を発想した者が「何を根拠にコレを自らの発想した疑問であるか」と認識するのか?或いは、この疑問を発信した人間が「何を根拠に、この問いが“問い”として他者に認識された」と認識するのか?というコト。コレを突き詰めていくと、人とは一体何であるのか?とか自らの意思を他者に伝達できない人間は人ではないのか?という非常に重厚な壁にぶつかるワケだが、今回はこの壁をすり抜けて先を急ぐ。
人は本人の意思に関わらず、社会に拠ってしか存在することができない存在だ。要は、自らの意思を持って生きるに至ったとき、望む・望まざるに関わらず人は自動的に社会の恩恵を享受しているというコト。

社会の成員である他者の生存を脅かす行為(殺人)は、自らの意思を伝達する相手を抹殺することであり、自らの拠って立つ社会を破壊する行為に等しい。
つまり、“何故人を殺してはいけないか?”という問い自体が“矛盾”なのだ。


と、ここまで大急ぎでハナシを進めてきたが、では死刑はどうなんだ?戦争は?という声が聞こえてきそうな気もする。その点はまた次回ということで、今日はココまで。


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