SSブログ

亀井発言 [社会]

亀井金融・郵政改革担当相の 経団連批判 が話題になっている。日本における家族間の殺人事件の増大は、企業が人間の尊厳を軽視していることに由来する、という中々ユニークな発言だ。この件に関して、「殺人事件の発生件数自体は減少している」なんて書いているブログもあり、ちょっと微笑ましくもある。
確かに亀井の発言は、このブログの云うように事実から逸脱しているし、論理的にも飛躍し過ぎていることは明白だ。しかし、問題はそこではないように思える。この国の金融政策を司る人間が、企業の機嫌を伺うどころか寧ろケンカを吹っかけているワケで、それをどう考えるかということ。
亀井は経団連系ガリバー企業を威嚇するという彼なりのパフォーマンスで、鳩山内閣のキーマンであることを誇示しているのだろう。恐らく先の平成の徳政令構想を含めても亀井にお咎めはない。友愛を標榜する内閣における強面大臣の言行は、今後も世間の耳目を集めることになりそうだ。

発言の正当性はともかくとして、グローバル資本主義の名の下で大企業がせっせと取り組んできた企業活動が社会の混乱を招いたということは理解できる。グローバル化とは端的に言えば、生産者(労働者)と消費者の分離である。企業は安い労働力を求めて次から次へと拠点を変えて浮遊し、低コストで生産した商品を高く買ってくれる消費者へ販売する。発展途上国で生産されたモノはその国々の人々に消費されることなく素通りして、先進国で消費されるワケだ。その過程で毒物や異物を入れ込んでやろうとする人が現れたとしても不思議はない。更に云えば、先進国の中でも(グローバル化の影響で仕事を失ったり、賃金をカットされたりして)経済的格差が生まれ、安くて危険なモノは低所得者層の手元に届く可能性がグンと高まる。

以前にも書いたが、急速に収縮するグローバルな世界は、重力崩壊によってブラックホールと化す巨大な星を思わせる。もし星の中核に、企業が搾取した労働力の恨みつらみが紛れ込んでいたとしたら、、、亀井大臣の発言も世迷い言と一蹴することは出来ない。

草食系政党の思惑 [社会]

問題の記者会見を経て、ちょっとした動きがあった。岡田外務大臣が記者会見をオープン化することを発表したワケだが、ネットで話題になっているように政府が後手に回っているというよりも、そもそもひとつの思惑があるんじゃないかという気がしてきた。
鳩山内閣(平野官房長官)は内閣支持率の調整をしようとしているのではないか? 鳩山内閣の支持率は現在70%に迫る高い数値になっており、国民の期待が非常に大きいことを示している。ならば調整(今回の場合はセーブ)の必要などないと思われるかもしれないが、長期的に見た場合、例えば財源確保の為に止む無く税率に手をつけるなんてことになった時は、高過ぎる支持率はネックになる可能性もないとは云えない。
これまで内閣支持率の算出に関する主導権は、世論誘導に絶大な力を誇る大手メディアにあったと云って過言ではない。この主導権は、政治家の進退や選挙において魔法の杖のように絶大なチカラを発揮する。

鳩山内閣にとって、内閣発足時の支持率が高い数値を示すのは火を見るより明らかで、それが大手メディアによって作られたものであるという自覚もあった。このままいけば大手メディアの顔色をいちいち窺いながら政策展開していかなければならないが、それは避けたい。そこで重箱の隅をつつくことで食い繋いでいるネットメディアに敢えて冷や飯を食わせ、その反応で支持率の調整を行う。支持率が大きく下がり過ぎないように言行に緩急をつけながら緩々と進み、後手に回ってデキないフリをしながらも公約のレールからは決してブレない。こうして世論(=メディア)を割っておけば、話題作りには事欠かないし、餌の配分の匙加減でメディア(=世論)をコントロールできる。

僕の考えたストーリーは大体こんな所だが、本当にこの芸当をやってのける胆力が果たして平野官房長官にあるのか?という疑問は残る。結果がでるのはもう少し先になりそうだが、これまでメディアにやり込められてきた政界が、国民の信頼の上に胡坐をかくメディアを出し抜く様が見てみたいという期待は捨てきれない。

パイの行方 [社会]

少し前、需要の総体や限界効用の話題になるとニュースコメンテーターの評論家やら学者が、決まって“パイ”という表現を使っていたが、それが廃れてせいせいしている。そもそも日本語の使い方さえままならない視聴者をヘンテコな米国語(?)で煙に巻いてやろうって感じがして、たまらなくイヤなのだ。“パイ”にハナシを戻すと、これは統計データの割合を示す円グラフが丸くてパイみたいだってところからきているらしいのだが、果たして丸い形のパイに縁遠いのは僕だけなのか、どうも違和感をもたずにいられなかったというワケ。

今日、鳩山由紀夫が首班指名を受けて(正式には天皇による任命を経て)第93代内閣総理大臣となった。これは先の総選挙において、選挙民が政権交代を望んだ結実であるワケだけれど、もう少し掘り下げて云うと「自分自身の境遇を是としなかった選挙民が多数であった」ということで、小泉構造改革の結果、持たざる者(改革的思考)の数が持てる者(保守的思考)の数を逆転したと云う事が出来ると思う。
確かにこの国の将来は暗い。僕自身未婚なのであまり大きな声では言えないが、二人の人間が結婚して生まれる子供の数が1.5人に満たない国なわけで、単純に考えれば30~40年後の人口(国の規模=納税総額)は4分の3くらいに落ち込むことになる。鳩山政権の当面の目標は縮小の定めにあるこの“パイ”のレシピ作りだ。
レシピの失敗例は古本屋に山積みになっている。一昔前のビジネス書によく書いてあった例えで、極寒の地でクラーを売り、灼熱の地でヒーターを売る工夫とか、需要の促進ではなく創出が肝要だ、なんてことがまことしやかに書かれていたが、アメリカの住宅バブル崩壊を経た今思い返すと、まるで短期的なポンジースキーム(ねずみ講)の決まり文句のようでちょっと微笑ましくもある。いろんなトッピングでデコレートしている間に肝心のパイの中身はねずみが食い散らかしていたというオチ。

かつて無限と盲信された“創出”の果てに予想に違わず“崩壊”が訪れた。アメリカではサブプライムローンが、日本では麻生太郎が幕を引いたワケだが、鳩山政権が転がり込んできたチャンスをどう活かすのか? ことあるごとに“パイ”と連呼していた経済評論家がついに導出できなかった新しいスキームを提出するのか、とても興味深いところだ。
そのスキームにソニータイマーが仕掛けられていなければよいのだけれど。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

2007年初日から2006年を憂う [社会]

年末年始のお祭り騒ぎのドサクサに紛れて“トヨタ自動車の申告漏れ”が発覚した。この時期は新聞もTVも定番の年末編成で責任のある立場の人もみんな休みになるのだろう。タダでさえ内容の薄い紙面や放送にちょこちょこっと申し訳程度の報道がなされただけだった。

特にテレビにはがっかりさせられる。年も明けていないうちから占い師に来年どうなるか予言させ、年明けは金の掛からない新人芸人の漫才。通常国会の召集が近づいてきて漸く“この1年はどうなるか”なんて企画がチラホラでてくる。年末に出た経団連系ガリバー企業の不祥事はうやむやにされて、彼らに楯突くチャレンジャーは後に尾を引くような形で新年早々から叩かれる。テレビばかり見てるとバカになるとはよく言い得ているな、と思う。
フセインの死刑執行とトヨタの不祥事発覚からは、何か重大なモノを2006年と一緒に過去の記憶にしたいという強い意志を感じる。そのお陰で、2006年は兎に角後味の悪い年になったが、“重大なモノ”が今年中に災いをもたらさないようただただ祈るばかりだ。

さて、新春お笑い番組でも見て、今年もハナから年を忘れる勢いで現実逃避するか!?


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

バベル [社会]

公開はまだまだ先だが、『バベル』の日本向け公式サイトができた。

少しどころか大分話題が逸れるが、バベルのはなしに限らず、宗教的な教義を世相に重ね合わせて悲観する風潮は昔からある。そうした解釈から現代を見ればまさにツッコミどころ満載の世の中だ。
土曜とか日曜の報道番組の特集風に云えば“信頼関係の崩壊”というところか。政治家と国民、雇用者と被雇用者、教師と生徒、そして親と子の信頼関係は確かに強固とは云いがたい。しかし、どうだろう?本当に“崩壊”と呼べるほどしっかりしたモノが嘗てこの国にあったのだろうか。
現実から目を逸らして懐かしむ過去は素晴らしい世界に違いない。でも、多分、それは幻想だ。「我々は乗り越えてきたのだ」という自負が過去の労苦を軽減させ記憶を曖昧にさせる。中途半端な共通点を見つけては知ったフリをして批判し、評価し、やがて忘却する。
以前、イジメについて、“イジメにあう人は僕みたいなのとは正反対のタイプが多いのだと思う”と、まるで自分がイジメとは全く関係ない人間であったかのように書いたが、これも恐らく幻想なんだと思う。小ズルく立ち回って困難(といっても大したものではないけれど)を回避してきたという強烈な思い込みに支配されて、イジメに関して積極的に思い出そうという気がないだけなのだ。お陰で、子供は昔の自分の様にズルくて残酷な存在なのだという固定観念からどうしても抜けられずにいるワケ。
今、教師が槍玉に挙げられているけれど、教師を責めたところでどうしようもないコトだという気もしてくる。彼らも僕と同じワンダフルワールドの住人で、イジメに遭っている子供達の悲痛な想いをイメージできないのだろうから。
その一方で幻想の世界を持てない人達もいることだろう。虐待やイジメによって人生の早い段階から逃げ場を奪われた人達は、“乗り越えた”という感覚がない為に呪縛から逃れられずに何時までもそこに固執しづづけるしかないかもしれない。悲しみが新たな悲しみを無限に量産し続ける絶望的な世界だ。

イジメに限ったことではない。病気や障害、出自、所属など大小の差こそあれ、そこに出現する溝は他者との意思疎通を断絶するには十分なくらい深い溝なのだと思う。“信頼関係の崩壊”は現在進行形で百人百様の“現代”を建設し続ける我々人類に課されたバベル(=混乱)の呪いなのかもしれない。

どうもハナシを本筋に戻せそうにないので、もう一つ。
僕は無神論者ではないけれど、唯一絶対の神様を崇め奉るほど寝惚けてもいないという自負がある。“アンタの創った世界には、バベルの塔を崩壊に至らしめたちんけな怒りに屈するほどデキタ人間ばかり住んでるワケじゃねぇんだぜ”ということを声を大にして云ってやりたい。そんな気持ちで映画『バベル』の公開を心待ちにしている。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

権力の暴走。正義の所在。 [社会]

福島、和歌山につづいて宮崎の県知事(逮捕時にはいずれの知事も辞職済みなので正確には“前知事”と云うべきか)が逮捕された。
行政首長の不正に対しマスコミは沸き立っているが、何を今更と云ってやりたくなる。まさに権力にへつらう“ガキの使い”だ。報道機関が記事欲しさに国家権力に取り入るコトはある程度しかたのないことだとは思う。しかし、鈴木宗男の逮捕以降この傾向は強まるばかりで、最早偏向報道の域に達している。今のマスコミに権力の暴走を食い止める使命感や精神力を求める方がどうかしているのかもしれないが。

僕の新聞・テレビに対する不信の源泉は12年前(1994年)の松本サリン事件にある。それまで新聞が間違ったことを書くわけがないと信じていた(ま、当時は17歳でそれほど熱心な購読者ではなかったけれど。。。)僕は、事件後間もなく逮捕された第一通報者の男性を何の疑いも無く“とんでもない野郎”だと思った。結局のところ彼にかけられた嫌疑は冤罪だったワケだけど、約半年にも渡って紙面を飾りつづけた生々しい自白やサリン生成に関する尤もらしい講釈は一体なんだったのか、無実の人を極悪人だと断罪した自分は何様なのか、つくづく考えさせられた。
その反省から密室(警察や検察の取調室)から出たリーク情報に基づく報道は勿論のこと、マスコミ報道全般を疑いの目で見るようになった。

正義の名の下に誰かを糾弾することはとても簡単なことだ。そうした行為には露ほどの勇気も必要ないし、そもそもそれは正義とは似て非なるものだ。正義とは信念によって支えられる崇高な精神だと僕は考えているが、現代においてそれは組織的な方針に支えられる張子に成り下がった。いちいち組織や権力の顔色を伺って発動される正義の鉄槌の重みなど知れたものだ。


閑話休題。一連の知事の不祥事にハナシを戻す。福島県の事件が明るみに出た際、これは安倍政権の主導だと感じた。道州制へ向けた大きな布石となるに違いないだろうし、果てには大統領制まで射程に入っているのかもしれない。兎に角、地方分権論者の望みは完全に揉み消された、と。しかし、福島に先駆けて浮上していた岐阜の裏金問題や、和歌山県知事の逮捕、東京都知事へのバッシングに至ると問題はそう簡単なモノではないような気がしてきた。参院選を控えた自民と民主の戦いだ。漁夫の利を得る形で前哨戦を制したのは検察で、遅れて警察が参戦した。おこぼれにありつこうとマスコミが嗅ぎまわる。正義など二の次の、まさに仁義無き泥試合の様相だ。小沢一郎の善戦を称えるべきか、検察の暴走を嘆くべきか?というところだろう。
次の参院選は小泉が解体したモノの大きさを思い知ると同時に、新たな権力構造の船頭を決める重要な選挙になるだろう。ここまでの経過を見ると司法・立法・行政の三権の調和は望むべくもないようだが。。。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:ニュース

絶望する子供たち [社会]

イジメによるとされる自殺が相次いでいる。
新聞やテレビはさかんに特集を組んで自殺を思い止まるように訴えているが、空疎な感じがしてしかたない。今、学校で行われているイジメは僕達(オトナ)が目の当たりにしてきたそれとはレベルが違うものなのかもしれない。“イジメに耐え得る強さを身に付けろ”とかいうワケのわからない叱咤もナンセンスだし、“ワタシも昔イジメられたことがある”という告白もなんだかなと思う。

彼らは想像力の欠けたオトナ達に絶望しているんじゃないだろうか?
子供の世界は狭い。が、子供にとってはそれが全てだ。そしてその世界は残念ながら僕達が嘗て生きていたのとはちょっと違う次元にある。彼らは権力にしがみつくだけの無能なオトナを見ているし、失望の末に引きこもる青年や変質者に成り下がる人間、身を売ってまでブランド物を手に入れて自分の居場所を確保しようとする少女がいることを知っている。オトナでさえ希望を見出せない殺伐とした社会に何かを求めろと日々脅迫されて生きているワケだ。剥き出しの本音と形骸化した建前がゴロゴロ転がっている社会に何を見出せというのか?
学校を出てもクソみたいなレールの上を鬱病を背負って歩いていかなければならないし、かといって学校を出なければ社会から疎外される。どっちに転ぼうが結局ツマラナイ現実が待ち受けている。そんな灰色の将来に向けた束の間の猶予期間に困難が生じた時、死を選択するのは必然というものなんじゃないだろうか。

彼らが必要としているのは、体育会系バカの妄言でも目を瞑ってイジメを克服した負け犬の同情でもない。鬱病の診断書でもなければ、軟弱な教師達の謝罪でもないだろう。社会や学校に蔓延した失望を吹き飛ばすに足る絶対的なパワーや信念が存在するのだという確信だ。

守るべきは学校の体制や受験のシステムではないはずだ。今こそ子供の世界を守る為に命を張るヒーローの出現に期待したい。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学校

処世術 [社会]

処世術と云うほど立派なものではないけれど、生きる指針のようなものは大体学校で身に付けた。教わったコトで今役に立っていることはハナクソほどもないけれど、教師達のお陰で人に期待するコトの虚しさを知り、絶望的な退屈にも耐え得る強靭な精神力を手に入れた。そもそも人を信じていないから誰かに裏切られて深く傷ついたりしないし、騙されて悔しい思いをすることもない。少し寂しい気もするが、そんな大人になった。
今、履修単位の不足と並んでイジメに因る自殺のニュースが話題になっているけれど、イジメにあう人は僕みたいなのとは正反対のタイプが多いのだと思う。親、学校、教師、同級生に対して大きな期待を寄せる素直な子供だ。イジメる側はその期待を知っていて、敢えてそれを裏切り失望の淵に沈んでいく彼の様を嘲笑うワケだ。先日の繰り返しになるけれど、子供は自分の弱さを知っている。故に自分より弱い者を見つけ出す嗅覚は敏感だ。彼のウィークポイントを的確に捉え容赦なく追い込む。大人になるに連れてその嗅覚が一銭の価値も無いことに気が付き、力のある者を探し彼に付き従うことに意味を見出すようになるワケだが、なんとも在り来たりでつまらないサイクルだ。

自らに向けられる期待(プレッシャー)と、自分が周りにかける期待(希望)をうまく調整し、現実とのギャップに折り合いを付けていくことは非常に難しい。そんなモノを小さな背中に負わされた子供達が教室に押し込められて、ツマラナイ教師と顔を向き合わせて退屈な時間を過ごしている。何も起きない方が不自然なんじゃないだろうか。
そもそも、イジメやら何やらのトラブルに耐え忍び、それを乗り越えてまで通う価値が果たして学校にあるか?甚だ疑問だ。


北朝鮮の隠し球 [社会]

9日、北朝鮮が核実験を行った。これにより世界情勢(とりわけ北を取り巻くアジアの状況)は全く新しい段階に入った。これまでの言葉によるオトナの対話から思想や国家的アイデンティティを懸けたサバイバルステージに足を踏み入れたというワケだ。
北は自国の体制を保持しながら世界にコミットすることを望んでいる。交渉を有利に進める為には手段を選ばない。拉致問題を皮切りに、ミサイル実験や今回の核実験と手持ちのカードを次々と繰り出してくる。ワイドショーなんかに出てくるタレント教授の当たり障りのない話を聞いていると、一見、北は自国の首を自らの手で絞めあげているような気もしてくるが、関係国の輿論が固まらない内に次のボールを投げ込んでいるトコロを見れば案外緻密な計算があるのかもしれない。事実、右に左に揺さぶられる日本のバットは完全に振り遅れている。民主主義国家の宿命だ。
兎に角、北は交渉のテーブルの上に何が飛び出すか分からない“ビックリ箱”を置く事に成功した。突然プルトニウムを搭載した変化球が飛び出すかもしれないし、案外何も入ってないのかもしれない。不安は往々にして判断を誤らせる。
強い警戒心と根拠の無い楽観主義の入り乱れた日本はいいカモかもしれない。核実験を安倍総理の韓国訪問に合わせることで、北は日本に警告を出しつつも、交渉の窓口役に安倍を指名したのではないかと僕は思っている。事ココに至ってはマスコミ報道に真実を見出すことは難しいだろうが、総理の采配を信じつつ、改めて自国について考えてみようと思う。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:ニュース

日の丸・君が代 [社会]

所謂、国旗国歌問題で9/21に東京地裁は「日の丸・君が代の強要は違憲」との判決を下した。これまでの流れを変える判断に対する反応は様々だ。
国旗国歌の問題にはあまり関心が無かった。というか、何が問題なのかよく分からなかったワケ。強制する都教委の意図も分からないし、それに過剰に反応する日教組の真意も分からない。ただ、こういう人達によって学校は管理・運営されているんだなということだけは分かった。

昔から学校は嫌で仕方なかったし、教師に対する不信は強い方だった。集団行動というヤツがどうも苦手だったのだけど、それを無理くり詰め込もうとする教師のやり方がどうも納得いかなかった。そうは云っても(たまにはサボったけど)学校には通ったし、心ならずも教師に媚びを売って場を切り抜けることも多々あった。子供ながらに、学校という特殊な環境においてはそうするコトが一番イイ方法だって考えていたのだと思う。
とは云えこのハナシは、僕の習った先生がたまたまつまらない奴等ばっかりだったという、それこそクソつまらない理由だけで片付けるワケにはいかない問題であるとは思っている。原告の教師達 の言い分は憲法に約束されている“個人の自由”に国旗掲揚や国歌斉唱の“強制”が抵触しているというものなのだろう。全くその通りだ。彼らの主張は尤もだと思う。しかし、それでめでたしめでたしとなるほど世の中はウマくできていないとも思う。生徒やその親、これまで何も考えていなかったノンポリ教師を同じフィールドに引きずり込んだという点で今回の判決は大きな意味を持つ。教育現場に認められた自由は今後あらゆる観点から曲解され矮小化或いは拡大解釈されて様々な問題を派生する可能性を秘めている。
僕が都立高校の生徒だったら、早速先生にこう聞くと思う。「センセイは国旗国歌についてどのような考えを持ってますか?」と。あとは簡単だ。そいつと反対の立場からコトあるごとにそれをつつけばイイのだから。
子供は自分の弱さを十分に知っている。弱い者を追い詰める能力は天才的だ。

教育現場の自由を勝ち取った教師達の敵は、都教委などではなく、もしかすると同胞や子供達の中から出現するかもしれない。法律で対処できない問題をどう解決するか? そのときは、本来教育によって培われるべき応用力の存在をちゃちゃっと証明して欲しい。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(2) 
共通テーマ:学校

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。