SSブログ

不合理を内包する存在(天皇制について三度) [社会]

“神はあらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない”
これはスピノザの著した『エチカ』の有名な一節だ。この本をはじめて読んだのは、女の子を口説くのに論理学が使えるんじゃないか?と大真面目に考えていた高校生の頃。勿論、と云うべきかどうか判断するのはビミョーなところだけれど、書かれているコトが殆ど理解できなかったお陰で女の子を口説くのにも大変苦労したことを思い出す。
まぁ、その辺のハナシは置いておいて、スピノザの言葉を噛み砕けば、「合理性というのは、ある程度の不合理性を織り込んでいる」というコトだと思う。あまり大きな声では云えないが、僕は「合理性の究極は“神”だ」と信じている。大きな声じゃ言えないというのは、なにも宗教がかった人だと思われたくないとかそういうワケではなくて、“神”の存在に帰結する議論はあまり好ましくないというか、フェアじゃないと考えるからだ。

前置きはこれくらいにして、天皇制について。以前、天皇制を機能的で便利な制度だと書いた。歴史というものをどう捉えるかという問題はあるにしても(勝者或いは支配者によって歪められた事実を歴史と呼ぶにしても)、僕達が共通認識として学んだこの国の歴史を考えるとき、天皇の存在は欠くことのできないコアであることに変わりない。つまり、歴史の闇の部分も華やかな部分も一緒くたにまとめて引き受けているワケで、日本という国の整合性というか正統性を司る存在なのではないか、というのが僕の考え。この便利なものを無くすコトが果たして合理的なのか?というハナシがしたいのだけれど、これは非常に難しい問題だ。「必要ない」と主張する人を批判するほどの理論は持ち合わせていないが、天皇制を廃止したとき、この国における『合理性』は言葉としての意味を含めて確実に変質するのではないかと思う。実際に西欧諸国はこうした問題を乗り越えて現在の市民社会を構築したワケだけれど、我が国がそれを克服できるだけのパワーを備えているかは甚だ疑問だ。


それはそうと、安倍内閣誕生を目前に控えて秋篠宮紀子妃が帝王切開により男児を出産した。新しい総理が現代に摂関家を復活させようとしているのか?はたまた時代の要請(天皇制の存続或いは廃止の議論)を受けてのデザイナーズベイビーか?なんて書くとまた怒られちゃいそうだけど、憶測は深まるばかりだ。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(3) 
共通テーマ:日記・雑感

天皇制について(再び) [社会]

前回に引き続き戦争と天皇制について書く。
高度経済成長期に色濃く見られた「戦争はいけない」的な風潮に疑問があった。(この時期はマスコミが世論を誘導するほど強大な力を手に入れる過程に合致しており)マスコミが自らのアイデンティティを保つ為のスローガンに過ぎなかったのではないかと考えているワケ。

さて、大東亜戦争と天皇制ついて。(VIDEONEWS.COMでは)霍見芳浩や江川達也が宮台真司との議論の中で、現在の天皇制につい言及するには恐らく明治維新まで遡らなければならないだろうと結論付けていたが、多分その通りだろう。それは大東亜戦争についても同じことが云えると思うのだけれど、その辺(明治維新頃)の勉強が圧倒的に足りないので、追々付け足していくということで、ハナシを進める。大東亜戦争を巡っては、様々な思惑が交錯し今に至っているワケだが、大まかに二つに分けられる。一つは「軍部の政治介入を助長した翼賛体制の招いた悲劇である」というもの。もう一つは「列強の恫喝に近いプレッシャーの中で、国体維持の為、心ならずも開戦に至ったが結果として多くの悲劇を生み出してしまった」というもの。
前者は国内に、後者は国外に比重を置いていて一見「右・左」がハッキリしているような感じがするが、どちらも似たようなモノだと思うし、最後に“だから二度と同じ悲劇を繰り返してはならない”とか尤もらしい言葉を付け加えれば、まさにマスコミの言い分にグッと近づくような感じもする。冒頭にも書いたけれど、戦後マスコミはこうした非生産的でありながら尤もらしく聞こえる議論を延々と繰り返すことで思想自体をマイルドでグダグダなものにしたのではないか、というのが僕の考え。
まぁ、それは置いておいて、ここで注目すべきは、こうしたマスコミ的議論においては当時の国家元首である天皇の存在を微塵も感じさせないトコロだ。前回“天皇の戦争責任論を持ち出すのは見当違いだ”と書いたけれど、それは昭和天皇発言メモに関して戦争責任論を語るのはどうかというコトで、『天皇の戦争責任論』自体がナンセンスというわけではない。天皇の戦争責任なんてモノは自明のことで、いちいち取り上げるほどのことではないというコトだ。

自分のコトを右寄りと云っておきながら、戦争責任は天皇にも有ると書いてみたり、なんだかハナシがごちゃごちゃになってきたところで、つづきはまた後日に回す。
僕が今日ココに書きたかったことは“なんだかL・Rがごちゃごちゃな気がする”という感覚を作り出したのはマスコミなんじゃないかってこと。
ハナシの核心はこの続きにある。戦争責任を免責されてまで天皇の存在は残されなければならなかったのか?否か?というコトだ。僕はここに右・左の決定的な差があると考えている。


つづく


nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(3) 
共通テーマ:blog

昭和天皇発言メモの波紋(天皇制について) [社会]

昭和天皇がA級戦犯の靖国神社合祀に強い不快感を示していたことを記録した、富田(元宮内庁長官)メモが話題になっている。小泉総理在任中の8・15参拝や9月の総裁選を控えもうひと波乱あるかと予想されたが、自民党(森派)の対応は素早かった。まず、小泉の信念が揺るぎないモノであることを発表し、続いて跡継ぎの安倍から“天皇の発言の政治利用”を懸念する旨の牽制コメント、更に間を置かず福田康夫に総裁選の不出馬を表明させ、事態の収束(自民分裂を回避)に努めているようだ。
毎度のコトではあるが、マスコミ各社もこの流れに同調しているようで、今回も野党は蚊帳の外といった感がある。

ブログにも今回の件に関する記事は多くて、いくつか読んでみたのだけれど、実に様々な意見があるんだなと感心してしまった。ここぞとばかりに靖国問題に絡めて小泉政治を批判する人もいれば、中には天皇の戦争責任論なんて少し見当外れなコトを持ち出す人もいる。
ネット右翼と呼ばれるジャンルがあるようで、彼等は拉致問題や竹島の問題に関して北朝鮮や韓国を強烈に批判するのだけれど、今回のように皇室の側から自国に向けられた疑問(特に先の戦争に関する批判)が出てくると、たちまち萎縮してしまって意見が混乱してくるのがちょっと微笑ましくもある。

“ネット右翼”を擁護するつもりはサラサラないのだけれど、やや右寄りの立場から天皇制について書くことにする(なんて偉そうなコトを云うと生粋の右翼の人たちに怒られてしまうかもしれないが)。
僕は、天皇制というのは実に機能的で便利な制度だと思っている。つまり、日本文化におけるプラスの面もマイナスの面もひっくるめて請け負っているのが天皇の存在なのではないかという考え方なのだが、この話題を扱うには少なくとも“戦争観”、とりわけ“大東亜戦争に関する見解”を明らかにする必要があるように思う。(因みに先の戦争の名称を「大東亜戦争」と呼ぶか、はたまた「第二次世界大戦」と呼ぶかは、その人の思想が右なのかそうでないかを判断する一つの目安になる。大雑把にまとめると、戦争には、宣戦を布告した側がその戦争の名称を決するという暗黙の了解があって、この場合、結果的には敗戦したものの、そもそも意識的に戦争を始めた日本が「大東亜戦争」という正式名称を閣議決定しているワケで、これは戦争の評価(良かった・悪かった)に関わらない事実ではないかというのが右の主張なのだ) 戦争とは国家間の対話の極限状態なわけで、石破茂風に云うと国際法にも認められている外交の一つの手段だ。ココにおいて成功を収める道は戦争に勝つこと以外には無い。つまり、勝たなければ意味がないのだ。
戦争の是非についてなんだかんだ議論するのもイイし、ジョン・レノンを崇拝するのもいいかもしれない。しかし、政治家がそれをやったらお終いだ。一つだけ確かなことは、他国が自国の領土や国民に対して特殊な関心を抱いている場合、例えば拉致や竹島の問題、或いはミサイル発射の問題が過熱した場合にどう対処するかは国民が決断しなければならないというコトだ。時には世情を鑑みて、戦争の意味を直視することも必要なのではないだろうか?


つづく


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(2) 
共通テーマ:blog

社会について(或いは『死について』の補足) [社会]

ここまで、死について(とりわけ殺人について)考えてきた。確か、佐伯啓思が、「嘗て『何故人を殺してはいけないのか?』という問いは問題としての意味を成さなかったが、現代においてその問いは純然たる問題として認知されるに至った」というようなコトを書いていた(記憶が定かでなくて申し訳ないのだが、多分『現代日本のイデオロギー』(講談社)の冒頭にそんな感じの記述があった)。
なるほど、そういうスマートな考え方もあるのだろうが、昨日までココに書いてきたことは「嘗て問題の体を成していなかったモノが今日、まことしやかに流通しているが、それが問題の体を成していないコトには何の変わりもない」という、どちらかといえば保守的な考えだ。

確かに、この十数年間ニュースやワイドショーを騒がせてきた事件は陰惨なものが多かった。コメンテーターと一緒になって溜息を吐き、社会の変質を嘆く人も少なくないだろう。しかし、本当に社会は変わってしまったのだろうか?
話題が少しずつずれていくが、僕は、大きな社会変化はこれまでに2度しかなかったと考えいる。一度目は文字の発明。これは本当に衝撃的な変化だったと思う。言葉を形にして後に残そうという発想が見て取れるからだ。古代の人々はこの時、数年後かはたまた数百年後か、或いは永遠の後を想像したのかも知れない。そして2度目が近代におけるメディアの出現(何を以ってメディアの出現と定めるかは諸説あるのだろうが、ココではとりあえずグーテンベルグの活版印刷機あたりを意識している)。こっちは前者に比べてかなりインパクトは小さいが、現代に生きる僕たちの思考の礎となっている点で非常に大きな意味を持っていると云える。メディア(特に即効性のある映像メディア)の発達と共に“民主主義”が世界中に伝播していったことからも分かるように、メディアは文字の発明以降拡散を続けてきた歴史観や思想をカテゴライズし評価(統制)するにはもってこいのシステムなのだ。文字の発生以降専ら未来に向かっていた思考のベクトルが、メディアの誕生で(真逆の)過去の方向にも分散されたと云えば分かり易いかもしれない。確かに現代における技術の発達は目覚しいが、思考・思想の発達速度はどうだろう?メディアの出現した近代にピークを迎えたものの、その後は急激に失速したと云えなくはないだろうか。
つまり、僕たちは今、アタマでは過去を振り返って分析・分類し、カラダだけ未来の方を向いて生きている状態なのではないかというコト。過去と未来のどちらに重きを置くか、が先のテーマ(『何故人を殺してはいけないのか?』)に関する対応の分かれ目になってくるのではないかと僕は思っているのだけど、過去に拘泥する余り、100年、或いは1000年後の世に残すべき思想なりモノを生み出せないのはとても寂しい事だと思う。
日本で、年間自殺者数が3万人を超えて推移しているコトも気になるところだ。自ら死を選択することで思考停止状態にケリをつけようとしていると解釈するのは強引過ぎるのかも知れないが。。。


つづく


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:日記・雑感

死について [社会]

昨日は、「“何故人を殺してはいけないか?”という問い自体に矛盾がある」というトコロまで書いた。とても解りづらい表現だが、僕の表現力ではココが精一杯だ。

ハナシは逸れるが、高校生のときに現代社会の教師が「環境を良くする為にはどうすればイイか?」という問題を出した。僕はこの問題に対し、出題した教師への皮肉も込めて「人間がいなくなれば、環境のコトなんか苦にする奴はいなくなるんじゃないっすか」なんて、ひとつのヒネリもなくこたえてしまう、極々ありふれたツマラナイ高校生だった。多分、溢れんばかりの性欲を持て余して厭世的な気分に支配されていたのだろう。生殖本能なんかの薀蓄を交えて人間絶滅論を考える余裕があったなら、もう少し面白い議論ができただろうにと悔やまれるところだ。
ハナシを戻す。まぁ、そんなこんなで高校当時の僕はロクに勉強もせずに、『死刑制度や戦争は人を殺すことを容認しているのではないか?』なんて、ワケのわからないコトばかり考えては、社会に対する不信と怒りを日々溜め込んでいったワケ。これも今にして思えば、赤面せずにはいられない稚拙な疑問だ。死刑や戦争は、そもそも社会の存続を目的にしているのであって、積極的に殺人を推奨している訳ではない。今回の話題に即して云えば、“矛盾の排除”である。そう、我々の拠って立つ社会を脅かす行為(矛盾)が無ければ、死刑が執行される必要も戦争をする必要も更々ない。

ココにきてはじめて「人を殺しても云々」という議論が成り立つワケだ。例えば、『国民の負託を得た国家の遂行する殺人が許されるか否か?』 しかし、このテーマも『死』をめぐる無限ループの入り口なのだろうという気がする。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

どうして人を殺してはいけないのか? [社会]

内田樹のブログに影響されて考える。内田さんの本は『寝ながら学べる構造主義』を文字通り寝ながら斜め読みした程度で、正直云うと彼の専門領域が何であったかさえ殆どアタマに残っていないのだが。。。

まぁ、その辺の事情はさておき、本題へ。“何故人を殺してはいけないか?”という一見時代遅れとも云えるテーマには少なからず興味があった。僕自身二十歳過ぎくらいまで、何故人を殺していけないのかよく分からなったのだ。とは云っても、今改めて正当な理由を論理的に述べよと言われても応えに窮するわけだが、、、兎に角今の考えをササッと書いてみようと思う。
先に僕の辿り着いた結論から云えば、そもそも社会というフィールドにおいては「何故人を殺してはいけないか?」という疑問自体がナンセンスであるということ。こういう云い方をすると、一昔前のカタイ考えの人間と思われる方もいるかも知れないが、まあそれはそれで置いておいて、ハナシを先に進める。まず、(このブログでは再三再四に渡って書いていることなのだけど)その疑問が言葉という“社会的手段”を用いて生み出され、伝達されている点に注目したい。つまり、この疑問を発想した者が「何を根拠にコレを自らの発想した疑問であるか」と認識するのか?或いは、この疑問を発信した人間が「何を根拠に、この問いが“問い”として他者に認識された」と認識するのか?というコト。コレを突き詰めていくと、人とは一体何であるのか?とか自らの意思を他者に伝達できない人間は人ではないのか?という非常に重厚な壁にぶつかるワケだが、今回はこの壁をすり抜けて先を急ぐ。
人は本人の意思に関わらず、社会に拠ってしか存在することができない存在だ。要は、自らの意思を持って生きるに至ったとき、望む・望まざるに関わらず人は自動的に社会の恩恵を享受しているというコト。

社会の成員である他者の生存を脅かす行為(殺人)は、自らの意思を伝達する相手を抹殺することであり、自らの拠って立つ社会を破壊する行為に等しい。
つまり、“何故人を殺してはいけないか?”という問い自体が“矛盾”なのだ。


と、ここまで大急ぎでハナシを進めてきたが、では死刑はどうなんだ?戦争は?という声が聞こえてきそうな気もする。その点はまた次回ということで、今日はココまで。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:blog

儚い夢(村上世彰逮捕について) [社会]

インサイダー取引の疑いで(通称『村上ファンド』代表の)村上世彰が逮捕された。村上の逮捕自体は2ヶ月くらい前からチラホラ噂されており、当然と云えば当然の向きではあるが、ボクには、所謂格差社会や勝ち組の時代を半ば強引に終息させようとする流れがあるようにも思えた。

ヒルズ族と呼ばれ、持て囃された堀江や村上の魅力は彼等の全身に漲る独立の姿勢にあったのだと思う。しかし、今になってマスコミや世論(誘導しているのは検察という冠を被った国家と云えるかもしれないが)は、彼等の“独立の姿勢”というヤツを妙な形で扱い始めたような気がしている。
そもそも村上は宮内義彦(オリックス会長)の薫陶を受けて世に出たワケだし、堀江は自民党の推薦を得て先の選挙に出馬した。彼等にも立派な後ろ盾は在る、或いは在った。しかしながら、世間はそこをクローズアップせずに、あわよくば飼い主の手を噛み千切らんばかりの“野心”に注目した。彼等の真実の姿がハウンドドッグなのかどうか、というのは微妙なトコロだ。彼等が彼等の損得勘定によって時代の要請に乗っかったと見るべきなのかもしれないし、単に我々の期待が描いた幻想と呼ぶべきなのかもしれない。または、あらゆるメディアがメディアを持つ企業であるが故に触れることのできない“アンタッチャブル”な部分(要はビッグネーム)を巧妙に覆い隠しながら作り上げた虚像なのかもしれない。
いずれにしても、今という時代は、昨日『善』とされたものが今日『悪』に変わり、更には明日それが覆されるか全く予想のつかない、まさにオセロゲームの様な時代だ。バブル崩壊以降、約10年に渡ってたまり続けてきた閉塞感を打ち破る役割を負わされた『勝ち組』は、早くも退場を迫られていると云ったところだろうか。果たして、このゲームに勝ち残る真の勝者は一体誰なのだろう?

因みに、村上が逮捕される数時間前に開いた記者会見のノーカット版はGyaOで見ることができる。USENの企業的な思惑について考えるのも非常に興味深いが、他のメディアがこの記者会見のドコをどう切り取って何を伝えたかを記憶に留めておくことは次の10年を生きる上でなにかのヒントになるかもしれない。そんなことをぼんやりと考えつつ村上のハナシを聞いた。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

ニッポンの行方 [社会]

同和地区の福祉の充実を目的として設立された財団法人「飛鳥会」の理事長が横領の容疑で逮捕された。同和問題の影で暗躍する人権マフィアの存在はハナシには聞いていたものの、実際に解放同盟の支部長クラスの犯罪が摘発されたことには少なからぬ衝撃を受けた。
衝撃と云っても、人権マフィアのような性根の腐ったヤツ等が許せないとかそういう類のモノではない。日本が明治維新級の歴史的な転換点に差し掛かっているのではないか、という大袈裟と言われればいささか大袈裟な勘繰りなのだ。バブル崩壊以降の流れ(55年体制崩壊→情報化社会の本格化→小泉内閣による構造改革→国際情勢の悪化→憲法九条及び皇室典範を巡る日本社会の右傾化)を経て、所謂闇社会の犯罪摘発にたどり着いたことで、ようやく次の時代の片鱗がチラホラ見えてきつつあるように感じている。つまり、転換の材料が出揃った、と。イメージとしては戦後復興からロッキード事件までで括られる一時代に類似する流れと云えば分かり易いだろうか。

とりわけ同和問題が(秋篠宮妃の懐妊で少し落ち着いた感はあるものの)皇室典範についての議論が盛んになされる今取り上げられたことの意味は大きい。ちょっと青臭いハナシになるが、そもそも日本国憲法は“法の下の平等”をベースにしながらも、“皇室典範”という特例を内包する、謂わばダブルバインドの向きがある。日教組をはじめとする生真面目な左側の人達がそこら辺の問題を執拗につついている間に人権マフィアのような闇が自然発生的に出現したとボクは見ている。良し悪しは別として、それまで一定の秩序の下で棲み分けが実現していた二つの社会の間に流れる橋のない川に橋を渡したのが彼等だ。
バブル崩壊・冷戦終結とともにガチガチの左右の対立もなくなり、構造主義と情報化の下に出現したあらゆる価値観がこれまでの軋轢をスマートに解消していく中、橋守の立つ瀬は確実に無くなりつつある様に見える。

ここ150年の歴史を振り返っても、時代の節目は、外国からのプレッシャーに晒されながら国内のゴタゴタがまとまるときに見られる。維新か戦争か、はたまた経済の飛躍か。いずれにしてもニッポンという国を強く意識する日が近づいているように思う今日この頃だ。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:blog

本来あるべき姿 [社会]

先日発表された消費者物価指数の上昇を受けて量的緩和政策が解除された。決算前の解除による株式市場の動揺を懸念した与党首脳陣の度重なる牽制を振り切った形の決断となったワケだが、市場は寧ろ日銀(金融政策委員会)の速やかな決定を英断と捉えたようだ。

“量的緩和の解除後、間もなくゼロ金利政策も解除され日本経済は本来あるべき姿に戻るだろう”という観測があるが、なんとなく違和感があった。そう感じるのはボクがバブル崩壊後の殺伐とした世界観に長く支配された世代だからなのかもしれないし、ここ一週間の株価のぎこちない動きを見れば、案外大方の人間が感じていたことなのかもしれない。確かにゼロ金利は間もなく解除されるだろうし、日本経済も国際水準の力を取り戻しつつある。しかし、耐震偽装問題やホリエモンの逮捕、或いは今回の金融政策決定に関する政府の物言いが薄氷の上を歩くようにあまりにも慎重だったコトはかえって国民の不安を煽ったようにも見える。00年のゼロ金利解除が失敗に終わったコトが足枷になっているのは理解できるが、その後の血の滲むような企業努力や、実際に死者までだした所謂構造改革に対する政府の自己評価は果たしてどんなものであるのか?
バブル崩壊のトラウマに傷つき、リストラに耐え、辿りついた格差社会に慎ましく生きる国民の感情は繊細だ。この国の“本来あるべき姿”を如何に正確にイメージするか、が生死を別つ分岐点になることを薄々感じている。国民は強い意志と機敏な行動力を兼ね備えた“The man”の出現を渇望し、彼のありがたい宣託を心待ちにしているように思えてならない。
彼がハーメルンの笛吹きでなければいいのだけれど。。。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:blog

混迷の社会 [社会]

見えない脅威への恐れは、バブル崩壊、冷戦の終結のダブルパンチによってピークに達した。不安が覆い尽くす世の中を見渡せば、メディアの言う“混迷の社会”という表現もしっくりくるような気もする。

資本主義化する世界で着々と育まれてきた社会的欲望(他者に優越したいという願望)が鬱屈した個人的妄想を再生産するプロセスは、現代社会に生きる成員に通底すると信じられてきたグランドセオリーの倒壊、或いはグランドセオリーそのものが幻想に過ぎなかったことを決定付けるものと云える。
社会的欲望が個人的妄想を産出する過程で放出されるエネルギーを糧に肥え太ったメディアは、次代を担う産業として開発の進められてきた情報技術を駆使して“不安”に火をつけた。

蒸発し霧散する“不安”は人々の意識の奥底に刷り込まれ妄想と化し、それらの妄想が隙間なく張り巡らされた電線を伝って不特定多数の大脳にリンクする『混迷の社会』、それが情報化社会だ。高度情報化社会の到来によって急速に収縮するグローバルな世界は、重力崩壊によってブラックホールと化す巨大な星を思わせるが、ここ日本においては重力と呼ぶには心もとない不安が、ただ霧のように漂っているだけのような気もする。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。