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社会について(或いは『死について』の補足) [社会]

ここまで、死について(とりわけ殺人について)考えてきた。確か、佐伯啓思が、「嘗て『何故人を殺してはいけないのか?』という問いは問題としての意味を成さなかったが、現代においてその問いは純然たる問題として認知されるに至った」というようなコトを書いていた(記憶が定かでなくて申し訳ないのだが、多分『現代日本のイデオロギー』(講談社)の冒頭にそんな感じの記述があった)。
なるほど、そういうスマートな考え方もあるのだろうが、昨日までココに書いてきたことは「嘗て問題の体を成していなかったモノが今日、まことしやかに流通しているが、それが問題の体を成していないコトには何の変わりもない」という、どちらかといえば保守的な考えだ。

確かに、この十数年間ニュースやワイドショーを騒がせてきた事件は陰惨なものが多かった。コメンテーターと一緒になって溜息を吐き、社会の変質を嘆く人も少なくないだろう。しかし、本当に社会は変わってしまったのだろうか?
話題が少しずつずれていくが、僕は、大きな社会変化はこれまでに2度しかなかったと考えいる。一度目は文字の発明。これは本当に衝撃的な変化だったと思う。言葉を形にして後に残そうという発想が見て取れるからだ。古代の人々はこの時、数年後かはたまた数百年後か、或いは永遠の後を想像したのかも知れない。そして2度目が近代におけるメディアの出現(何を以ってメディアの出現と定めるかは諸説あるのだろうが、ココではとりあえずグーテンベルグの活版印刷機あたりを意識している)。こっちは前者に比べてかなりインパクトは小さいが、現代に生きる僕たちの思考の礎となっている点で非常に大きな意味を持っていると云える。メディア(特に即効性のある映像メディア)の発達と共に“民主主義”が世界中に伝播していったことからも分かるように、メディアは文字の発明以降拡散を続けてきた歴史観や思想をカテゴライズし評価(統制)するにはもってこいのシステムなのだ。文字の発生以降専ら未来に向かっていた思考のベクトルが、メディアの誕生で(真逆の)過去の方向にも分散されたと云えば分かり易いかもしれない。確かに現代における技術の発達は目覚しいが、思考・思想の発達速度はどうだろう?メディアの出現した近代にピークを迎えたものの、その後は急激に失速したと云えなくはないだろうか。
つまり、僕たちは今、アタマでは過去を振り返って分析・分類し、カラダだけ未来の方を向いて生きている状態なのではないかというコト。過去と未来のどちらに重きを置くか、が先のテーマ(『何故人を殺してはいけないのか?』)に関する対応の分かれ目になってくるのではないかと僕は思っているのだけど、過去に拘泥する余り、100年、或いは1000年後の世に残すべき思想なりモノを生み出せないのはとても寂しい事だと思う。
日本で、年間自殺者数が3万人を超えて推移しているコトも気になるところだ。自ら死を選択することで思考停止状態にケリをつけようとしていると解釈するのは強引過ぎるのかも知れないが。。。


つづく


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