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脱却と回帰(『たけしの日本教育白書』のことなど) [テレビ]

去年もこの時期に放送したのを思い出しつつ、やめとけばいいものを『たけしの日本教育白書』を見た。今年の主題は“品格”。非常につまらなかった。生バラエティの哀しい性とは云え、酷い内容だ。出演者が放送上ギリギリのラインを手探りしながら進行する様子は伝わってきたが、彼らの発言はどれもが既にネットでは議論され尽くし、今では誰も見向きさえしないものの焼き増しのような感じがするのだ。土俵が違うとは云え、テレビの限界ここに在りといったところか。久米宏の登場でテレビの可能性についてもう少し違った展開を望めるかと期待したが、グダグダを払拭するには至らなかった。2ちゃんねるのアクセスは伸びたのかもしれないが。

さて、前回『三丁目の夕日』について書いたが、こうした映画の登場は、戦争→高度経済成長→バブル経済という一連の浮き沈みを冷静に振り返る余裕がでてきたことを感じさせる。政治不信や教育問題、或いは国際情勢の悪化など不安な要素はまだまだ山積みだが、全体的に見れば良い傾向だと思っている。
時代の主な構成要素は脱却と回帰である。脱却と回帰それぞれのピークにその時代を象徴する出来事があるのだ。大東亜戦争は欧米の外圧からの脱却と明治以前の鎖国思想への回帰と云うことができるだろうし、高度経済成長は戦時中の悲しく惨めな体験からの脱却と明治維新的なダイナミズムへの回帰と解釈できる。バブル経済はちょっと種類が違うかもしれないが、それまでの禁欲的な労働環境からの脱却と階層社会(身分 ⊇ 学歴といった)への回帰傾向がピークに達したモノと見ることが出来るかもしれない。
そして現在、バブル崩壊による不況を敗戦時の混乱に重ね合わせるような形で物事を考える人達が増えているような気がする。豊かさと自由という洗練された牢獄に囚われた我々は、『三丁目の夕日』に描かれた時代への憧れ、或いは郷愁のような共通のプラットフォームから、格差社会に耐え得る精神力を手に入れようとしているのかもしれない。
この先どうなっていくのか?は分からないが、前述の番組における石原都知事と久米宏の議論にあった(或いは宮台真司あたりがよく言っていることでもあるが) 、「次世代の幕開けは“悲劇”によってもたらされる」という考え方からすると、今僕達が立っているプラットフォームはあまりにも頼りないし、その上で一朝一夕に獲得できる郷愁や悲哀の意味などほんの微々たるもの(永遠に2ちゃんねるの域を脱しないもの)だと思えてくる。ま、そもそも、こうした視座の下では今回のタイトルでもある“脱却と回帰”が時代の推進力だなんて考え方は、薪でロケットを飛ばすようなもんだと一蹴されるのがオチだろうけれど。


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