SSブログ
テレビ ブログトップ

『ハゲタカ』 [テレビ]

NHKの土曜ドラマ『ハゲタカ』が面白い。展開はベタだし内容も『金融腐蝕列島 呪縛』のパクリとしか思えないのだけど毎週見てしまう。ダブル主演(?)の片割れ、村上世彰を相当意識した設定の役柄を淡々と演じる大森南朋が特にイイ。

さて、ドラマから現実にハナシを戻す。とは云うもののこちらでもドラマさながらの大型合併・企業買収劇が繰り広げられているようだ。三角合併の要件に大きな変更がなされないことを考え合わせるとこの動きは益々過熱していくだろう。アメリカと経団連の意向の板挟みになった内閣の支持率が面白いように下がっているのも興味深いところだ。

今にして思えば、これまでに発覚した不祥事の中にはこうした一連の流れへの布石だったと考えるべきものも多数ありそうだ。
大きなうねりの中で現実と虚構の境界が非常に分かりにくくなっている。ある日突然上司が外国人になる可能性も否定できなくなった今、ドラマを見て何を思うかは自らの生き方を考える上で大きなウェイトを占めることになるのかもしれない。娯楽が単なる娯楽ではなくなったようで少し悲しい気もする。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

テレビ革命 [テレビ]

関西テレビによる捏造のニュースのせいもあってか、ビル・ゲイツの(当然といえば当然過ぎる)予測に一層現実味が加わった感がある。

先日、『世界一受けたい授業』というテレビ番組で“情報社会におけるリスク認知”のハナシが出ていて興味深かった。要は報道によってスピンされた情報が如何に不確かなものであるかみたいなハナシ。普通メディアは自らの存在意義に関わるような話題を扱いたがらないので、その点では評価できる。
これが絶対的な自信(例えどんな話題を扱ったとしてもテレビは不滅だという)の表れなのか、或いはビル・ゲイツを始めとするネット愛好者の予測する社会に徐々にシフトチェンジしようとしているのか定かではないけれど。
もしも、情報番組で紹介される健康食材に殺到する視聴者の愚かさを指摘する意図があったとするなら、まだまだテレビも捨てたモンじゃないなと思えるのだが、、、それは穿った見方というものか。

どちらにせよ我が国のメディアリテラシーの次元が極めて低いことに変わりはない。
とかなんとか云いながら、大河ドラマと『華麗なる一族』は欠かさず見ている。根はテレビっ子なのだ。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

脱却と回帰(『たけしの日本教育白書』のことなど) [テレビ]

去年もこの時期に放送したのを思い出しつつ、やめとけばいいものを『たけしの日本教育白書』を見た。今年の主題は“品格”。非常につまらなかった。生バラエティの哀しい性とは云え、酷い内容だ。出演者が放送上ギリギリのラインを手探りしながら進行する様子は伝わってきたが、彼らの発言はどれもが既にネットでは議論され尽くし、今では誰も見向きさえしないものの焼き増しのような感じがするのだ。土俵が違うとは云え、テレビの限界ここに在りといったところか。久米宏の登場でテレビの可能性についてもう少し違った展開を望めるかと期待したが、グダグダを払拭するには至らなかった。2ちゃんねるのアクセスは伸びたのかもしれないが。

さて、前回『三丁目の夕日』について書いたが、こうした映画の登場は、戦争→高度経済成長→バブル経済という一連の浮き沈みを冷静に振り返る余裕がでてきたことを感じさせる。政治不信や教育問題、或いは国際情勢の悪化など不安な要素はまだまだ山積みだが、全体的に見れば良い傾向だと思っている。
時代の主な構成要素は脱却と回帰である。脱却と回帰それぞれのピークにその時代を象徴する出来事があるのだ。大東亜戦争は欧米の外圧からの脱却と明治以前の鎖国思想への回帰と云うことができるだろうし、高度経済成長は戦時中の悲しく惨めな体験からの脱却と明治維新的なダイナミズムへの回帰と解釈できる。バブル経済はちょっと種類が違うかもしれないが、それまでの禁欲的な労働環境からの脱却と階層社会(身分 ⊇ 学歴といった)への回帰傾向がピークに達したモノと見ることが出来るかもしれない。
そして現在、バブル崩壊による不況を敗戦時の混乱に重ね合わせるような形で物事を考える人達が増えているような気がする。豊かさと自由という洗練された牢獄に囚われた我々は、『三丁目の夕日』に描かれた時代への憧れ、或いは郷愁のような共通のプラットフォームから、格差社会に耐え得る精神力を手に入れようとしているのかもしれない。
この先どうなっていくのか?は分からないが、前述の番組における石原都知事と久米宏の議論にあった(或いは宮台真司あたりがよく言っていることでもあるが) 、「次世代の幕開けは“悲劇”によってもたらされる」という考え方からすると、今僕達が立っているプラットフォームはあまりにも頼りないし、その上で一朝一夕に獲得できる郷愁や悲哀の意味などほんの微々たるもの(永遠に2ちゃんねるの域を脱しないもの)だと思えてくる。ま、そもそも、こうした視座の下では今回のタイトルでもある“脱却と回帰”が時代の推進力だなんて考え方は、薪でロケットを飛ばすようなもんだと一蹴されるのがオチだろうけれど。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

愛について [テレビ]

以前、”言葉に誠実であろう”と心掛けていると書いた。僕は、これでもブログを更新しているとき、なるべく“論理の飛躍がない”よう努めているんです。それが実現しているかはかなりビミョーなところだけど、ヤマ場もオチもない点では中々イイ線を行ってるんじゃないかという気もする。この際、面白味に欠けるのは仕方がない。と、ワケのわからない言い訳をしてみる。

最近、本が面白くないだのテレビがつまんないだのネット放送がなんだのと好き勝手なことばかり書いてるような気がする。あまりそういう事ばかり云ってると気が滅入ってくるので、今日は僕的にスゴク影響を受けたTV番組のコトを書くことにする。
とは云っても、もう2、3年も前に放送した番組で細かい部分についての記憶があやふやだったりするのだけれど。。。多分、養老猛が出てた「脳の不思議」とかそういうスペシャル番組だったと思う。そこで取り上げられた民族(部族?)のお話。
レポーター(日本人の女の子)がジャングルの奥に暮らす、「愛」を知らない部族を訪ねる。愛を知らないというのは、つまり、彼らの言語には“愛”に相当することばが無いというコト。彼らは内壁の無いドーナツ型の長屋に住んでいて、遊ぶときには大人も子供も関係なく、まさに老若男女入乱れて泥んこ遊びをしたり、川遊びをする。そんな彼らの生活を取材して数日が経ち、ある日レポーターが体調を崩して寝込んでしまうのだけど、彼らは代わる代わる彼女を見舞い(家には壁がないので、見舞うというよりは常に見守っていると云った方が適切かもしれない)元気づけ、痛いところはないかとお腹をさすったり、彼女の為に涙を流す。レポーターは感激の涙を流し、彼らに尋ねる。
「私の住む国では、あなた方の生活に散りばめられた多くのコト(子供と一緒になって遊んだり、病人を気遣ったりすること)を“愛”と呼ぶのですが、あなた方にはそういう概念はないのですか?」
村長が彼女にこたえる。
「私達の生活は、文字通り当たり前のことをして過ごしているだけのことです。特別なことではない。当たり前のモノゴトに名前をつける必要がありますか?」

そう、我々日本人が“愛”と呼ぶモノは彼らにとっては所与のモノなのだ。彼らは愛を知らないのではない。僕らが日々疑い、その行方を巡って傷つき、得難いものと認識している“愛”は彼らの存在の前提であるワケだ。
確かに日本には“愛”ということばがあって、擦り切れてしまうくらい日常的にそのことばを使用している。しかし、どうだろう?僕達は本当に“愛”が何たるかを理解しているといえるのだろうか?未開の土地に住む彼らのほうがそれを深く理解し、実践しているとは云えないだろうか?
僕にとってこの番組は本当に数日間まともに口がきけなかったくらい衝撃的で、今尚“ことば”について考えつづけるきっかけとなった。


つづく


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

“全てを疑う”という生き方について [テレビ]

昨日見たETVのことが気にかかる。番組のつくりというか、論調としては多様雑多なモノゴトの中から自分にとって必要なモノを見つけ出す能力が即ち“教養”であるといったような感じだったと思う。僕は番組後半の質疑の場面で太田が述べた「“全てを疑う姿勢”が重要なのではないか」という意見に親近感を覚えたのだけれど、これは考えようによっては物凄く難しいテーマだとも思う。疑うことの限界と云えばわかり易いだろうか。芥川龍之介が「懐疑主義の没落は疑うことを疑わなかったところに拠っている」というようなコトを言っているが、平たく云えばそういうコトだ。

ちょっと話題から逸れるけれど、膨大な歴史知識を蓄積した上で自らの思想の臨界を試した芥川の生き方(作風)は今回の番組の論調に見事に合致すると思う。しかし、どうだろう?果たして人はそうした生き方に耐え得るだろうか?ニーチェは耐え得る人間=超人になれと言った。芥川は超人に限りなく肉薄した人なのだと僕は思っている。結果としてニーチェは狂死し、芥川は自死した。この2人が自らの最後をどう感じたのかは僕にはわからないけれど、一般的な見方をすれば悲劇的な末路だと云えるだろう。

“全てを疑う”ことは不可能だ。ことばがそれを許さないのだ。しかし、太田の言う“全てを疑う『姿勢』”を目指すことはできるかもしれない。ただ一点、太田の想定する「全て」というのは、親の言いつけであるとか学校教育や政治の有り様といった上っ面の部分でしかないような感じがするのはとても残念だ。これは僕の感受性の問題かも知れないが、太田が余りにも簡単にこうした発言を繰り返すことも起因しているんじゃないかなと思う。

自分自身を疑うということについて、或いはことばを疑うというコトがどういうことであるのかを小林康夫辺りがフォローしながら議論がなされれば、もう少しスッキリした道筋が見えたのではないか。
まぁ、冒頭にも書いた番組の方向性からすると、僕(視聴者)がこうした形で何かを考えるに至ったという点で成功と言えるかもしれない。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

『爆笑問題×東大 ~東大の教養 決定版~』 [テレビ]

この週末は特に予定も無く、シニアマーケットについてのレポートをこつこつ作成している。そういうときに限って面白そうなテレビ番組が編成されたりして、中々作業が進まないから困る。
今回はNHK教育のETV特集『爆笑問題×東大』の誘惑に負け、作業を中断して小林康夫と爆笑問題の掛け合いを見ることになった。テーマは、『現代における教養とは一体何か?』という非常に興味深いもので、新聞のテレビ欄に掻き立てられた期待は大きかったのだけれど、内容はグダグダでとりとめのない雑談の域を脱しない感じだった。ただ、爆笑問題の田中が視聴者に関して“こんな硬いタイトルの番組だってバカな奴も変な奴も見てる”というような発言をしていて、それを編集で切らなかったコトには感心した。NHKだから為せる業なのだろう。田原総一郎あたりが朝生でゲストを挑発しても中々引き出せないコメントをいとも簡単に出しちゃう辺りがなんとも云えずイイ。

特に爆笑問題が好きというワケではない(どちらかといえば彼らの面白さがよくわからない)のだけれど、この頃『太田光の私が総理大臣になったら』という日テレのTV番組をよく見る。爆笑問題の太田扮する総理がマニフェスト(法案?)を提出し、それについて議員役のゲストを交えて討論→採決という構成で、議題はタイムリーなものとは云えないし、議論の展開もベタベタでそれほど面白味はないのだが、極々稀にマスコミ(特にテレビ)の方向性について語られたりするので、新聞なんかを読みながら横目でチラチラ見ているワケ。マスコミの体質について言及するのなら、テレビ局と新聞社や大手広告代理店とのヌルヌルした関係なんかについてズバッと言ってくれれば気持ちがイイのだけれど、中々そういう風にもいかないんだろうなぁ、などと間に流れるCMにやや番宣が多いことなどを気にしつつ穿った見方をしているのだ。

今回のETVを見て、NHKと民放の違いなんかを重箱の隅をつつくようにイチイチ検証してみたら、案外“現代における教養”に結びついたりするのかもしれないな、と思ったのだけど、どちらにせよ、小林康夫の本には当分世話にならなくてもイイかなという気もした。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:テレビ

しゃべり場(最終回) 後編 [テレビ]

さて、大分間が空いてしまったけれど、先日の続きから。

“将来僕らは幸せになれるのか?”という議論を見ていて印象的だったのは、既に社会人となっている人とそうでない人(高校生や大学生)の意見が分かれたこと。この議題の提案者は学校を休学してライターをしている20代前半の青年なのだけれど、彼に対して高校生が叱咤激励している模様が微笑ましくもあり、また大いに考えさせられるところでもあった。
この議論に参加した若者達に限らず、現代に生きる者は誰もが『幸せ』という言葉に敏感に反応する。このテーマに関して云えば傍目というポジションは無いに等しいと云えるだろう。誰もが幸せというキーワードの重要性を主張し、幸せでありたいと願う。しかし、この言葉の示す実体を知る者はいない。そんな気もする。
幸せって一体何なのだろう?

唐突だけれど、僕は、言葉に誠実であるコトが『幸せ』に通じるのではないかな、と結構ホンキで考えていたりするんです。ちょっと前に書いたことの繰り返しになるけれど、言葉について考えるときボクは虚しさを感じずにいられなくなるワケで、言葉に誠実であろうとすればするほど、自分の不甲斐なさを思い知って絶望的な気分になる。

ちょっと前に朝日新聞が『ジャーナリスト宣言』というキャンペーンをやっていて、「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを・・・・・・」というコピーをよく見聞きした。度重なる不祥事によって低下したイメージを払拭する狙いがあったのだろうが、滅法評判が悪く、方々で叩かれていた。僕もこのコピーには白々しさを通り越した独特の虚しさを感じた。
誤解を恐れずに云えば、言葉は万能だ。勿論、現実的な観点からそう断言するコトには注意しなければならないが、観念上、言葉が全てに先行すると定義しないことには全てが成立し得ない。言葉は全てにアクセスする為に欠かすことの出来ないキーなのだ。
そうした観点から云えば、朝日新聞のコピーは一見したところ表現的にも柔らかく尤もらしく聞こえるが、言葉の本質に迫る気概といったモノが感じられず、小手先で目先を変えたという印象が否めない。寧ろ、「朝日新聞は感情的で、残酷で、ときに無力だ。---朝日新聞のチカラを・・・・・・」とした方が説得力があるかもしれない。

ハナシを戻す。
“将来僕らは幸せになれるのか?”というテーマの難しさは『将来の僕ら』という広い対象を、『幸せ』という(一見したところ誰もが関心を示す、が故に)曖昧な一語で抉りだそうとしているところにあるのではないだろうか。少なくとも僕にはこの議論に明快な結論をつける能力はないし、番組中、石田衣良を含む出演者が結論を導出したようにも思えなかった。 言葉は全て(拡大解釈をすれば“幸せ”)にアクセスするキーだ。そして、言葉に誠実であるコトはそのキーの精度を上げることに繋がるのではないか、というのが僕の考えだ。その気になれば(朝日新聞の例のように)言葉を恣意的に扱うことで全く違った世界を展開することも可能なワケだが、そこには明快な結論は到底存在し得ない。

最後に。
『しゃべり場』という番組が終わりを迎えたことに関して、朝日のコピーを拝借して一言。 「議論は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、議論のチカラを・・・・・・」
お、こうしてみると、中々便利なコピーだ!


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:テレビ

しゃべり場(最終回) 前編 [テレビ]

これまで書いた記事を改めて読み返してみたら、思いのほか誤字脱字が多かったので赤面しながらちょこちょこ直してみました。言い回しがなんだかなってトコも少なくないですが、その辺は愛嬌てことでそのままに。「いくらなんでもコレは酷すぎる」とか「さっぱり意味がわかんない」というトコがあれば、コメントお願いします。

さて、素人によるガチンコ(?)討論番組のハシリで、十代の白熱した議論をメインに現代のワカモノの実像に迫るNHK教育の番組『しゃべり場』が最終回を迎えた。学生の頃(5、6年前)はよく見ていたのだけれど、最近はテーマや議論の展開が単調になってきた感があり殆ど見なくなった、というのは言い訳で、正直なトコロ、十代のアツイ想いに真剣に耳を傾けるにはちょっと歳をとりすぎたと云うべきだろう。
最終回のテーマは“将来僕らは幸せになれるのか?”というもので、参加者は歴代メンバー(3ヶ月サイクルで入れ替わり、多分20期くらいまでいってた)の代表者と作家の石田衣良。
今回のテーマを僕なりに解釈してみる。
何処までも続くのではないかと思われた世紀末から新世紀にかけての暗く長いトンネルを抜けてみれば、そこには勝ち負けの2色で構成れた格差社会が広がっていた。
ゆとりと個性を尊ぶ教育の下ですくすくと育った子供達は、思春期を迎える頃には得体の知れない立派なエイリアンに成長した。引き篭もり・リストカットの果てに悩むコトもアイデンティティと腹を決め、やっと前に進もうと決意した矢先に、フリーター・ニートは負け組みと一括りにされるヒエラルキーが突如彼等の眼前に立ちはだかる。“幸せ”というマジックワードは果たしてこのヒエラルキーを越えるだけのパワーを持っているのだろうか?彼等は世に言う“幸せ”を何処まで信用してよいものか決め兼ねているように見える。


というワケで、なんだか長くなりそうなので、一旦この辺で区切ってみようかと思います。とりあえずあと一点だけ。この議題を取り上げた青年(確か初期メンバー)の言い分はものすごくわかるような気がします。彼はフリーライターをしているらしいのだけど、このテーマについては今後も深く掘り下げていって欲しいと思いました。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ
テレビ ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。