SSブログ

愛について [テレビ]

以前、”言葉に誠実であろう”と心掛けていると書いた。僕は、これでもブログを更新しているとき、なるべく“論理の飛躍がない”よう努めているんです。それが実現しているかはかなりビミョーなところだけど、ヤマ場もオチもない点では中々イイ線を行ってるんじゃないかという気もする。この際、面白味に欠けるのは仕方がない。と、ワケのわからない言い訳をしてみる。

最近、本が面白くないだのテレビがつまんないだのネット放送がなんだのと好き勝手なことばかり書いてるような気がする。あまりそういう事ばかり云ってると気が滅入ってくるので、今日は僕的にスゴク影響を受けたTV番組のコトを書くことにする。
とは云っても、もう2、3年も前に放送した番組で細かい部分についての記憶があやふやだったりするのだけれど。。。多分、養老猛が出てた「脳の不思議」とかそういうスペシャル番組だったと思う。そこで取り上げられた民族(部族?)のお話。
レポーター(日本人の女の子)がジャングルの奥に暮らす、「愛」を知らない部族を訪ねる。愛を知らないというのは、つまり、彼らの言語には“愛”に相当することばが無いというコト。彼らは内壁の無いドーナツ型の長屋に住んでいて、遊ぶときには大人も子供も関係なく、まさに老若男女入乱れて泥んこ遊びをしたり、川遊びをする。そんな彼らの生活を取材して数日が経ち、ある日レポーターが体調を崩して寝込んでしまうのだけど、彼らは代わる代わる彼女を見舞い(家には壁がないので、見舞うというよりは常に見守っていると云った方が適切かもしれない)元気づけ、痛いところはないかとお腹をさすったり、彼女の為に涙を流す。レポーターは感激の涙を流し、彼らに尋ねる。
「私の住む国では、あなた方の生活に散りばめられた多くのコト(子供と一緒になって遊んだり、病人を気遣ったりすること)を“愛”と呼ぶのですが、あなた方にはそういう概念はないのですか?」
村長が彼女にこたえる。
「私達の生活は、文字通り当たり前のことをして過ごしているだけのことです。特別なことではない。当たり前のモノゴトに名前をつける必要がありますか?」

そう、我々日本人が“愛”と呼ぶモノは彼らにとっては所与のモノなのだ。彼らは愛を知らないのではない。僕らが日々疑い、その行方を巡って傷つき、得難いものと認識している“愛”は彼らの存在の前提であるワケだ。
確かに日本には“愛”ということばがあって、擦り切れてしまうくらい日常的にそのことばを使用している。しかし、どうだろう?僕達は本当に“愛”が何たるかを理解しているといえるのだろうか?未開の土地に住む彼らのほうがそれを深く理解し、実践しているとは云えないだろうか?
僕にとってこの番組は本当に数日間まともに口がきけなかったくらい衝撃的で、今尚“ことば”について考えつづけるきっかけとなった。


つづく


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。