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しゃべり場(最終回) 後編 [テレビ]

さて、大分間が空いてしまったけれど、先日の続きから。

“将来僕らは幸せになれるのか?”という議論を見ていて印象的だったのは、既に社会人となっている人とそうでない人(高校生や大学生)の意見が分かれたこと。この議題の提案者は学校を休学してライターをしている20代前半の青年なのだけれど、彼に対して高校生が叱咤激励している模様が微笑ましくもあり、また大いに考えさせられるところでもあった。
この議論に参加した若者達に限らず、現代に生きる者は誰もが『幸せ』という言葉に敏感に反応する。このテーマに関して云えば傍目というポジションは無いに等しいと云えるだろう。誰もが幸せというキーワードの重要性を主張し、幸せでありたいと願う。しかし、この言葉の示す実体を知る者はいない。そんな気もする。
幸せって一体何なのだろう?

唐突だけれど、僕は、言葉に誠実であるコトが『幸せ』に通じるのではないかな、と結構ホンキで考えていたりするんです。ちょっと前に書いたことの繰り返しになるけれど、言葉について考えるときボクは虚しさを感じずにいられなくなるワケで、言葉に誠実であろうとすればするほど、自分の不甲斐なさを思い知って絶望的な気分になる。

ちょっと前に朝日新聞が『ジャーナリスト宣言』というキャンペーンをやっていて、「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを・・・・・・」というコピーをよく見聞きした。度重なる不祥事によって低下したイメージを払拭する狙いがあったのだろうが、滅法評判が悪く、方々で叩かれていた。僕もこのコピーには白々しさを通り越した独特の虚しさを感じた。
誤解を恐れずに云えば、言葉は万能だ。勿論、現実的な観点からそう断言するコトには注意しなければならないが、観念上、言葉が全てに先行すると定義しないことには全てが成立し得ない。言葉は全てにアクセスする為に欠かすことの出来ないキーなのだ。
そうした観点から云えば、朝日新聞のコピーは一見したところ表現的にも柔らかく尤もらしく聞こえるが、言葉の本質に迫る気概といったモノが感じられず、小手先で目先を変えたという印象が否めない。寧ろ、「朝日新聞は感情的で、残酷で、ときに無力だ。---朝日新聞のチカラを・・・・・・」とした方が説得力があるかもしれない。

ハナシを戻す。
“将来僕らは幸せになれるのか?”というテーマの難しさは『将来の僕ら』という広い対象を、『幸せ』という(一見したところ誰もが関心を示す、が故に)曖昧な一語で抉りだそうとしているところにあるのではないだろうか。少なくとも僕にはこの議論に明快な結論をつける能力はないし、番組中、石田衣良を含む出演者が結論を導出したようにも思えなかった。 言葉は全て(拡大解釈をすれば“幸せ”)にアクセスするキーだ。そして、言葉に誠実であるコトはそのキーの精度を上げることに繋がるのではないか、というのが僕の考えだ。その気になれば(朝日新聞の例のように)言葉を恣意的に扱うことで全く違った世界を展開することも可能なワケだが、そこには明快な結論は到底存在し得ない。

最後に。
『しゃべり場』という番組が終わりを迎えたことに関して、朝日のコピーを拝借して一言。 「議論は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、議論のチカラを・・・・・・」
お、こうしてみると、中々便利なコピーだ!


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