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『ドイツ人が描く“或阿呆の一生”』(芥川龍之介 原作 カイ・グレーン 脚色) [演劇]

昨日の夜、運転中に聴くCDがなくてたまたまFMラジオをつけたら、繊細で陰鬱な、それでいてどこか懐かしい感じのするフレーズが耳に入ってきた。興味をそそられて聞き入る。声は明らかに朗読口調なのだけど、普通の朗読劇ではなさそうだ。一見繋がりの無い短い文章を読んでいるようなのだが、流れに一貫性がないワケでもない。更には何の脈絡も無く科白がドイツ語に切り替わったりする。
聴く者の不安を掻き立てながらも、決して恐怖に落とし込むわけではない(延々と微かな不安を持続させる)新感覚の朗読劇を暫く聴いて合点した。このスゴ腕の脚本家の正体は芥川龍之介だったのだ。

高校時代に芥川を読んで、直感的にこの人はホンモノの天才だと感じた。今でもそう思うし、彼ほど誠実に“言葉”と向き合った作家は他にいないのではないか、とも思う。現代国語の教科書に載っていた『羅生門』や『河童』は正直どうでもイイが、末期の作品、特に『侏儒の言葉』、『西方の人』、『或阿呆の一生』は時代や文学という小さな枠に収まりきらない才能の表出を感じる。
年々評論家の視野が狭まっているのか分からないが、批評対象をそれぞれの専門分野に引き込む手腕に注目が集まる傾向は強まるばかりだ。脳科学だの数学をやっている学者が思想やら生き方を語る。百歩譲って彼自身の思想やヘアスタイルの品格に目を瞑るにしても、彼らは彼らの能力に応じた題材を集めてきて、世の中にマッチングさせるためだけの文章を書いているとしか思えないワケ。
残念とは思いつつも、そうした作家の芥川論を読むよりは、たまたまつけたラジオで優れた才能を再確認するほうがいくらかマシな気もする。

家に帰ってからネットで調べてみたら、僕の聴いたラジオ番組はNHK-FMの“FMシアター”という番組であるコトがわかった。今後の放送予定を見る限り魅力的な編成は無いが、気が向いたらまた車の中で聞いてみよう。
『或阿呆の一生』が収録されている本は多々あるが、角川書店の編纂スタイルが趣味に合っているので、とりあえずリンクを貼っておく。

或阿呆の一生・侏儒の言葉

或阿呆の一生・侏儒の言葉

  • 作者: 芥川 龍之介
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 1969/09
  • メディア: 文庫


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『破無礼』(奥州幕末のハムレット) [演劇]

仙台在住の友人に誘われて8年振りに生で演劇を見た。仙台を拠点に東北弁のシェイクスピア劇を制作・公演している劇団シェイクスピア・カンパニーの『破無礼』。と、ここまで書けば、云うまでもないことかもしれないが、シェークスピアの『ハムレット』をベースに幕末の戊辰戦争下にある仙台藩(劇中ではデンマークになぞらえて“天馬藩”となっている)の悲劇を描いた作品だ。正直を言うと、方言を取り入れた演劇という点で市民のお楽しみクラブの域は越えられないだろうとタカを括っていたのだけれど、イイ意味で完全に裏切られた。非常に良かった。

僕自身、東北生まれの東北育ちでありながら、東北弁独特のイントネーションは田舎者の代名詞という印象が強い。標準語の中にあって際立つ個性(例えば金八先生に出てくる巡査)というか、決して主役には向かない言葉として扱われてきたような気がするし、無条件でそれを受け入れてきた。山田洋次の『たそがれ清兵衛』あたりからそうした印象は少しずつ変わってきた感もあるけれど、やはり貧しさや何ともいえない暗さといったマイナスのイメージは付きまとう。
また、方言特有の発音や訛りだけを強調して単語は共通語を使うというテレビ・映画的台詞まわしに漂う違和感は、観る者の感情移入を阻害し単なる観客に据え置いているのではないかと僕は考えている。この違和感を見事に乗り越えてみせた『破無礼』はまさに、一見の価値有りだ。

ちなみに、『ハムレット』の有名な一説「生くべきか、生くべきにあらざるか。それが問題だ(="To be or not to be , that is the question ! ")」は『破無礼』において「すっか、すねがだ。なじょすっぺ」と訳される。枷を外されたことばの心地よい語感をココ(文章)で伝えきれないのが歯痒い。
兎に角、誘ってくれた友人に感謝!


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