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『悟りの境地』、或いは『アタラクシア』 [雑感]

一ヶ月強の無職期間を経て、10月半ばからサラリーマンに復帰した。就職活動の合間に、これまでついつい先延ばしにしてきたことを幾つか実行した。まずは携帯の機種変更をして、スポーツジムに登録し、買うばかりで積読状態だった本を片っ端から読んだ。次いで、保有している株式を整理し、疎遠になっていた友人と連絡をとり、週一程度で続けられそうな散歩コースを探した。一ヶ月は瞬く間に過ぎ去ったが、久々に充実した日々を過ごすことができた。
特に散歩の途中ではいろいろな発見があった。と、云っても、子供のころに広いと思っていた公園を改めて歩いてみると、やたら小さかったとか、毎日見ていたはずの山を別な角度から見てみると全く違った形をしていることに気がついたとか、どれも当然と言えば当然のことばかりなのだけれど。

自力で歩くことをやめ、車のスピードに固定された時、目に映る景観も確実にロックされてしまうのだと思う。いわゆる固定観念というヤツだ。
これまで、僕は違った景色が見たくなったとき(時々無性に見たくなる)、場所を変えるしかないと信じて生きてきた。そこにも飽きたら、また新しい環境を探す。その繰り返しが人生なのだと思っていた。それが“固定観念からの脱却”だと勘違いしていたワケ。そもそも何が観念を呪縛しているのか? 根本的な命題に一切関心を示さず、専らスマートな生き方を模索するコトに生き甲斐を感じる人間が陥りがちなドクサ(=臆見)だ。

『固定観念』という言葉は明らかな矛盾、というか無駄な強調を内包している。何らかの縛りがなければ、観念もまた存在し得ないからだ。しかし、“固定”を一つ一つ時間を掛けて剥がしていくことは不可能ではないようにも思える。全てを剥がし終えたとき、そこに広がる世界を先人はこう名付けた。『悟りの境地』、或いは『アタラクシア』と。
恐らく、それは筆舌に尽くし難いのではなく、もはや、伝達する意味さえも消失したステージなのだろう、などと散歩をしながら考えているワケであります。


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至誠にして動かざる者 [雑感]

近頃、『論語』が注目されている ようだ。僕も昔、『論語』読もうと努力したことがあるのだけれど、これがまた退屈極まりないというか、面白さが全く感じられなかったことを思い出す。孔子がつまらないのか、孔子に教えを乞う弟子たちのセンスがないのか、岩波書店が悪いのか、はたまた僕自身に問題があるのか深く考えた挙句、とりあえず岩波書店のせいにしておくのが無難かなと結論したのだった。ちなみに(読んだことないのに云うのもなんだけど)、勝間和代の本も大体こんな感じで、僕には絶対合わないような気がしている。

ところで、今回のタイトル「至誠にして動かざる者」は孟子の言葉からとっていて、本来は「至誠にして動かざる者は、未だ之有らざるなり。」と続く。分かりやすく云えば“誠意を尽くしてあたれば、心を動かさない者などいない”といったところか。この言葉は『孟子』を研究していた吉田松陰によって広められ、今では政治家のプロフィールで座右の銘なんかによく書かれていたりもする使い勝手の良い言葉だ。

と、ここまで書いて、本来は孟子の易姓革命と9月の政権交代について書こうとしていたことを思い出したが、軌道修正するのは難しそうなのでこのまま進めることにする。(そもそも孔子の話題で始まったのが良くなかったかな。。。)
実を云うと「至誠にして~」というセンテンスには前後がある。孟子はこの前後に「誠は天の道なり。 誠を思うは人の道なり。 至誠にして動かざる者は、未だ之有らざるなり。 誠ならずして、未だよく動く者は有らざるなり。(=誠実とは道理である。誠実であろうとすることは道徳である。誠意を尽くしてあたれば、心を動かさない者などいない。また、欠けた誠意によって心を動かされる者もいない)」と言っている。

僕は孔子や勝間の誠意に心を動かされなかったし、政治家の誠意についつい疑念を差しはさんでしまうワケだが、それは彼らの誠意が僕の所へ届くまでに様々なフィルターを通って変質してしまったせいなのだろうか?

そう云えば、『論語』の中に一つだけ面白いと感じたエピソードがあったので、最後に紹介したい。
【微子第十八の五章 狂接輿(世を儚んで狂人のフリをしている隠者)が車に乗った孔子と道ですれ違う。狂接輿はすれ違い様、孔子に対して「この乱れた世の中において政治に関わることはやめなさい」という趣旨の歌を詠む。孔子は彼の話を聞こうと車を降りたが、狂接輿の姿は往来の果てに霞んで結局話をすることは出来なかった。】

もしも孔子が狂接輿に追いついて話ができたとしても、恐らく『論語』の方向性から逸れることのない退屈なハナシになっただろうことは想像に難くない。しかし、狂接輿が何を話すのか(恐らく孔子も感じたように、彼がとびっきりのハナシを聞かせてくれるんじゃないかという)期待をさせておきながら、それを台無しにする孔子の使えなさっぷりを以て『論語』の編者が何を伝えようとしたのか?サッパリ分からないあたりが何とも云えず良い。果たして、そこに至誠はあったのか、と深く追求しないでおこう。何事も中庸が肝心!

最近のこと [雑感]

2年もほったらかにしてしまったブログに、何を今更書けば良いものか悩んでいる。 故あって無職になり、まとまった時間ができたのでこの2年間をちゃらっと振り返ってみようと思ったのだけど、これが中々難しい。金持ちになったわけでもないし、結婚もしていない。敢え無く禁煙に失敗し、携帯キャリアも購読してる新聞も変えなかった。職業以外何も変わりなし。 強いて言えば、スーツのズボンを2本破る位太ったことと、極端に本を読まなくなったことくらいか。。。改めて書き出してみると、なんだか、とても惨めな気分になってくる。

さて、暗い気分をブッ飛ばして続けよう。世の中は僕のウエスト以上に劇的に変わった。 安倍→福田→麻生と総理大臣が駆け抜けるようにリレーし、アンカーの麻生がバトンを落として自民党は政権与党の座から転落した。これは、日本の政治が、世界金融恐慌という悲劇の舞台上でアメリカの政権交代を模倣するかのような展開にも見えたし、小泉が解体したシステムの怨念が成就した瞬間のようにも見えた。


と、ここまで書いてみて、「暗い気分」がブッ飛ぶどころか、更に重苦しさが増したような気がしてきた。そうだ、こんな時こそ中原中也の詩集でも読んで絶望の淵を垣間見てみれば案外救われるかもしれない。

中原中也は『酒場にて』という詩の中で次のように詠った。
“ほがらかとは、恐らくは、悲しい時には悲しいだけ悲しんでられることでせう?”
僕を含む日本人が長い間忘れていた感覚を取り戻すのは存外そう遠くないのかも知れない。段々そんな気がしてきた。まっ、なんとかなるさ!

瀬島の死と安倍の辞任 [雑感]

東浩紀の『情報環境論集』を読んでいる。五年ほど前に中央公論に連載され、ネット上で公開されている『情報自由論』が収録されていると知り、いてもたってもいられなくなってしまった。というのも24、5歳の頃初めて手にした論壇誌が“中央公論”で、実際に東の連載をリアルタイムで読んで、アタマの良い奴がいるものだなと感心していたワケ。再読して改めて(5年前にこの論文を執筆した)東の感度の良さというか、彼の思想的な立ち位置を確認できた気がした。

さて、このところ更新が滞り気味だった。今年のアタマから勤め始めた会社で異動があり、勝手の違う職務にてんてこ舞いしていたわけなのです。少しずつではあるけれど自分のペースが徐々に見えてきたかなというところ、と言えば聞こえは良いが実際は今月に入ってすぐに瀬島龍三が逝去し、安倍晋三が所信表明演説の二日後に辞職を表明するなど、殆どTVを見ない生活をしていても耳目を傾けずにはおれない出来事が次々と起き、それでは記録ついでにブログを更新しておこうと思った次第。

瀬島の死は家でとっている日経新聞と毎日新聞が一面で取り上げていて、彼の業績の重さを知らせていた。瀬島と云えば大本営参謀から伊藤忠、そして臨調と日本の歴史をまさに背負うようにして生きてきた人だ。数年前にTVに出演していたのを見たが、極めて正しいことを言う人だと感心した覚えがある。正しいと云ってもそれは“正統”とはまたちょっと違って、その時と場に応じた正当な言説で人を惹きつけることが出来る人だということ。自らの功績や持論を前面に押し出すことなく、しかし要所はキッチリおさえて結局最後にはこの人の凄さが心に強く残る。世間的には評価が分かれるようだが、それがまさに昭和という時代を体現しているような気もする。冥福を祈る。

そして安倍首相の退陣。退陣自体に驚きはないが、所信表明演説直後というタイミングはさすがに予想外だった。批判を一手に引き受けて次にバトンタッチした森にでもそそのかされたか、と一瞬頭をよぎったがやはりナンセンスだ。民主との大連立構想を小沢に吹き込まれた、というのもいまいちしっくりこない。参院選の顛末について世に倦む日日が書かれていたこと(特に後半部分)が現実となって安倍の肩にのしかかり、腸を断つに至ったと見るべきかもしれない。

瀬島の死は今の政治経済を取り仕切る人々の目にはどう映ったのだろう? かくありたしと願った人は果たして幾人いたことか気になるところだ。


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マイペース [雑感]

年明けから会社員に復帰した。定職に就いていなかった去年に比べてよくなったなと思える点は意外に少ない。なんて書くと罰が当たりそうだが本当なのだから仕方が無い。カードで買い物をする際に預金残高を過剰に気にするコトがなくなったコトと、コンパの席なんかでの自己紹介が楽になったコトくらいだろうか。

自分では仕事をするのは決してキライな方じゃないと思っている。目的をもってコトにあたり、あらゆる手を駆使してその達成を目指す。しかし、たまに目的が曖昧になって仕事をこなす事自体が目的化してしまったり、組織的な戦略と自分のやり方の間にギャップがあることに気が付く瞬間がやってくる。サラリーマンにとっての正念場だ。ココで一旦過去を振り返り作戦を練り直す余裕をもてば職場を去るという最終手段の他に選択肢を見つけることができるのかもしれない。とは云え、組織の中にあって自分を見失わずに歩き続けることは極めて困難だ。
僕も学校を卒業してから2つの会社を辞めたワケだけれど、“自分のやり方が本当に間違ってなかったか”内省し検証を試みたのは結局、退職願を書いている最中になってしまった。まず最初にすべき事を後回しにした結果だ。
まぁ、反省すべき点は反省するにしても、以前の職から離れたことに後悔はないからよしとする。

昨年から生活の拠点をオーストラリアに移した友人からメールが届いた。日本では感じられなかった自由と労働の悦びを享受しているようだ。お前もこっちに来いと誘われたが、あと2、3年遮二無二働いて、例えどんな忙しさの中にあっても測れる“自分のペース”を身につけてから、そのペースの内でゆっくり考えようと思う。
一点の反省もない辞表を書く為に僕は働くのかもしれない。


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Windows Vista [雑感]

先日書いた通り、『the Microsoft Conference 2006 仙台』に行ってきた。

Windows Vistaについては、先行体験コーナーなんてのを設けている電器屋もあるようだが、僕はPC本体を買うときくらいしか家電量販店には行かないので、今回はじめてVistaを触ったというワケ。率直な感想はどうだかなっていうところ。近未来的なグラフィックはかっこいいし、操作上のストレスも全くないのだけど、やはりWin98→XPへ乗り換えたときの劇的な感動を超えるものではなかった。体験用に置いてあったノートPCがハイエンドクラスのスペックだったのも手伝って、当然と云えば当然という感覚が増幅されたような気もする。やはりこの辺はビミョーとしか云えない。
そもそも製品のバージョンアップのインパクトは回を重ねるごとに小さくなるのが普通だ。パソコンのOSなんかは典型的と云えるだろう。ハードの品質向上や通信インフラの整備などの外部要因に拠るところが大きいし、運よくそうしたタイミングに恵まれても結局は消費者の購買意欲という追い風が吹かなければ、あらぬ方向に飛ばされてしまう。WindowsMeがいい例だ。

折りしも、googleの出現によってマイクロソフトの影は益々薄くなっている。Windows Liveで巻き返しを狙っているようだが、どこか中途半端な気もする。嘗てハイテク産業を付従えて頂点を極めた輝かしい日々を忘れられないのかもしれない。 このまま自らの創り出したドグマの内に沈みゆくのか、それとも不沈母艦として新たな航路を見出すのか?非常に興味深いところだ。

とりあえず、今回のカンファレンスを通じて“VistaはモバイルPCの可能性に注目して作られたOSだ”と感じたので、導入するのはWiMAXとかの次世代通信インフラが整う(1~2年くらいかな)のを待ってから検討しても遅くはないかなと思いました。


そうそう、例のしおりはS-PAL仙台に入っているソニープラザで買うことが出来ました。異動時間に少し勉強しようと思って『ネット社会の未来像』を読みながら行ったのだけど、案の定カンファレンスの内容とは殆ど被るところがなかったのでラストラインにセットして、帰りは居眠りしてました。


読書中の悩み [雑感]

久しぶりにネットサーフィンをしていたら、イイ感じの“しおり”を見つけた。僕は要領が悪くて、最近買った本と図書館から借りた本、読まなければならない本の3~5冊をとっかえひっかえ読むクセが身についてしまっている(勿論殆どアタマには残らない)のだけど、普通のしおりを挿んでいても、結局はそのページのドコまで読んだか分からなくなってしまうことがよくあるワケ。

この“しおり”、どうやらソニープラザで買えるようなのだけど、ひとつ150円のモノを買うのに送料525円をかけて送ってもらうのもどうかなぁ、と迷っていたら、丁度マイクロソフトから『the Microsoft Conference 2006 仙台』の案内メールが届いた。参加登録していたのもすっかり忘れていたのだけど、WindowsVistaがどんなものか見るついでに仙台のソニープラザも覗いてみようと思う。


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web2.0 [雑感]

1997年にはじめて買ったパソコンがIBMのAptiva(本体だけで実に30キロはあろうかというまるで金庫みたいなデスクトップ)だというコトもあるのだろうけれど、それから10年も経たない内(2004年の末)にIBMがPC事業部を聯想(レノボ)に売却すると発表したときには大きな衝撃を受けた。コピュータ業界の潮目が変わりつつある、と。
ダイヤルアップ接続の設定にてこずって、やっとインターネットに繋がったときの感動は忘れもしない。世界に繋がっているという感覚がたまらなく好きだった。ノートパッドにHTMLをベタ打ちしてテキスト系のサイトを立ち上げ、同じようなコトをしている人達とICQを使って意見を交換したり、実際に集まって酒を飲んだりした。そんな充実した日々はやがて常時接続によって日常となり、携帯電話や無線技術の発達とともに世界に繋がっているという特別な感覚はどんどん希薄になって、ついに当然の域を通り越して、気付けばITジャングルの中で息苦しさを感じるまでになった。

ブラウザソフトさえ入れておけば大抵のことが出来るようになり、インターネット越しに関わる人や遣り取りされる金に現実味を感じなくなった頃、IBMがパソコンのスペックに重きを置く時代にケリをつけた。全てをweb上でこなす(web2.0を代表する)ツール、即ちスカイプYouTube、そしてSNSの登場は、インターネットの世界に嘗ての感動とリアルな人間関係を呼び戻すきっかけになると同時に、恐ろしく複雑化された商業主義社会の狡猾な面をソフトに包み込む靄になるのではないかと僕は考えている。もはや選択や厳しい判断を求められることは無い。自らの意思によって必然的に判断し選択するように誘導する技術こそweb2.0の真髄だ。こうしてみると昨今の政治の進め方に酷似しているような気がしないでもない。


蛇足
昔、テキスト系というか日記系というか、まぁそんな類のサイトを開設していたと書いたが、そのサイトの存在意義を象徴するものがアクセス数だったワケ。その時『ReadMe!』というランキングサイトに登録していたのだけれど、懐かしくなって検索してみたら未だにやっていて少し驚いた。今ここに登録している人達は一体何を求めているのだろう?


関岡英之について(再び) [雑感]

7月に北のミサイル発射について書いたとき、関岡英之だったらこの件をどう解釈するだろうと考えた。彼の著作『拒否できない日本』は、アメリカが“年次改革要望書”によって日本を政治・経済の面でコントロールしているとレポートしている。公開されている資料の分析を基に書かれているので説得力があり、世間の評価も高い。
先に書いたブログには「関岡なら北のミサイル発射もアメリカの陰謀というまとめ方をするかもしれない」などと軽薄極まりないコトを書いてしまったが、ココで改めたい。関岡は徹底した分析屋だ。恐らくデータが無ければ分析も無い。憶測で物事を語ることに慎重な評論家という点で高い評価を得ているのだと思う。それは、つまり、オーソドックスから外れることなく、分析と理論の裏付けによって結果的に保守主義に辿りついた関岡のスタイルこそ、右傾化する日本社会の待望するものであったのかもしれないというコトだ。本尊の関岡はイイとして、問題は周りだ。彼の著作によってインスパイアされた思想を無自覚にバラ撒き、実生活に反映させる。それはやがて理論を持たない感情をいたずらにスピンするに至る。

星の数ほどあるブログをちょっと覗いただけでも、北朝鮮について相当酷いコトを書いているトコロがある。毎度のことになりつつある朝鮮人学校への嫌がらせのニュースもちらほらでてきた。
ここでアメリカがどうのと云っても仕方が無いのだけれど、北は世界中の裏金をキレイにしてくれる闇の貯金箱だということは明らかになっている。キレイになった金が何処で使われるのか?とても興味深いトコロではあるがココに関わるデータはこの先も出てきそうには無い。

この先は全くの想像。
政治には金がかかり、経済は金で動く。世の中は一握りの政治家と経済人、そして彼らのおこぼれにすがる大多数の一般人によって構成されている。政治家と経済人は損をしないように細心の注意を払う。それは北も日本もアメリカも万国共通だ。一般人はどんな陰謀が画策されているのか、永遠に妄想するだけなのかもしれない。自分の方に火の粉が飛んでこないように祈りながら。


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生きる意味 [雑感]

一つ年上の友達と温泉に行った。人間30にもなると(まだギリで29歳だけど)、パーソナルスペースというヤツが狭くなったような気がするものなのかもしれない。そんなハナシをした。こっちはタダでさえ掃除がままならなくて、限られたスペースに身を潜めているワケだが。。。
性向とか拘りとかシガラミなんてものが知らぬ間に身についていて気が付けば、ヤケに窮屈な世の中に押し込められている。そんな感覚に捉われることがある。僕の持論なのだけれど、これは多分、勘違いだ。人は、未だ手に入れてもいないモノを失ったような気がしてガッカリしたり、見たことも無いモノを見たような気になって虚しさを感じたりする。原型を留めないほどに断片化された想い、ささやかな失望や虚無感のピースを組み合わせて、それが単なる妄想の発露であったことを思い知るのに30年かかった。沸点に達した妄想が凝縮された現実に蒸留される瞬間。人生がとても味気ないものに感じられる瞬間だ。

今でも、たまにだけれど、“生きる意味”について考える。
多分、生きることに意味なんてモノは“ナイ”。分かっているつもりなのだけど、そう思えば思う程、無性に、欲しくなる。
“生きる意味”を実感したくなるとき、僕は窮屈な世の中にいる。それは閉塞された自我の周りをまわる小さな世界に違いない。


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