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権力の暴走。正義の所在。 [社会]

福島、和歌山につづいて宮崎の県知事(逮捕時にはいずれの知事も辞職済みなので正確には“前知事”と云うべきか)が逮捕された。
行政首長の不正に対しマスコミは沸き立っているが、何を今更と云ってやりたくなる。まさに権力にへつらう“ガキの使い”だ。報道機関が記事欲しさに国家権力に取り入るコトはある程度しかたのないことだとは思う。しかし、鈴木宗男の逮捕以降この傾向は強まるばかりで、最早偏向報道の域に達している。今のマスコミに権力の暴走を食い止める使命感や精神力を求める方がどうかしているのかもしれないが。

僕の新聞・テレビに対する不信の源泉は12年前(1994年)の松本サリン事件にある。それまで新聞が間違ったことを書くわけがないと信じていた(ま、当時は17歳でそれほど熱心な購読者ではなかったけれど。。。)僕は、事件後間もなく逮捕された第一通報者の男性を何の疑いも無く“とんでもない野郎”だと思った。結局のところ彼にかけられた嫌疑は冤罪だったワケだけど、約半年にも渡って紙面を飾りつづけた生々しい自白やサリン生成に関する尤もらしい講釈は一体なんだったのか、無実の人を極悪人だと断罪した自分は何様なのか、つくづく考えさせられた。
その反省から密室(警察や検察の取調室)から出たリーク情報に基づく報道は勿論のこと、マスコミ報道全般を疑いの目で見るようになった。

正義の名の下に誰かを糾弾することはとても簡単なことだ。そうした行為には露ほどの勇気も必要ないし、そもそもそれは正義とは似て非なるものだ。正義とは信念によって支えられる崇高な精神だと僕は考えているが、現代においてそれは組織的な方針に支えられる張子に成り下がった。いちいち組織や権力の顔色を伺って発動される正義の鉄槌の重みなど知れたものだ。


閑話休題。一連の知事の不祥事にハナシを戻す。福島県の事件が明るみに出た際、これは安倍政権の主導だと感じた。道州制へ向けた大きな布石となるに違いないだろうし、果てには大統領制まで射程に入っているのかもしれない。兎に角、地方分権論者の望みは完全に揉み消された、と。しかし、福島に先駆けて浮上していた岐阜の裏金問題や、和歌山県知事の逮捕、東京都知事へのバッシングに至ると問題はそう簡単なモノではないような気がしてきた。参院選を控えた自民と民主の戦いだ。漁夫の利を得る形で前哨戦を制したのは検察で、遅れて警察が参戦した。おこぼれにありつこうとマスコミが嗅ぎまわる。正義など二の次の、まさに仁義無き泥試合の様相だ。小沢一郎の善戦を称えるべきか、検察の暴走を嘆くべきか?というところだろう。
次の参院選は小泉が解体したモノの大きさを思い知ると同時に、新たな権力構造の船頭を決める重要な選挙になるだろう。ここまでの経過を見ると司法・立法・行政の三権の調和は望むべくもないようだが。。。


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『インテリジェンス 武器なき戦争』(手嶋龍一 佐藤優 共著) [読書]

幻冬舎が新書を出したというコトを新聞広告で知り、早速書店に行ってみた。幻冬舎は“売れる本”に徹底して拘る出版社という印象があって、あまり好きじゃないのだけど、新しい分野に進出するというコトで、どれほど斬新な新書が出来たのか少し期待するところもあった。新書の棚とは別に特別のコーナーが設けられていて、十数人の作家の本が平積みになっていたまでは良かったが、さすがに第一弾から冒険するワケにもいかなかったのか、今回はそれなりの作家を集めてそれなりの本を作ったようで、ちょっと残念だった。あれこれ手にとって40分程チラチラ読んでみたのだけどやはりシックリくる本がなくて、結局一冊だけ買うことにした。

『ウルトラ・ダラー』を書いた手嶋龍一と『国家の罠』の佐藤優の対談ということで、スパイマニアの妄想対談という感も否めないが、安倍内閣が日本版NSC(国家安全保障会議)の創設に着手したり、防衛庁の格上げが可決されたり、或いはロシアの政権に反目する人々が続々と不審な死を遂げるというニュースが話題になっている中、暇つぶしには丁度良いかなという感じで読んでいる。

大言壮語飛び交うページをめくっていると、昔、テレビで佐々淳行と元左翼活動家が対談していたのを思い出す。そこで元活動家が佐々に「あんたら(警察)みたいな組織の人間は、相手も組織だと勝手に思い込んで捜査するだろ?だから俺達を捕まえられなかったんだ。アジトに潜伏し続けるバカはいない、豆腐屋の二階とかに隠れてるワケ。勿論豆腐屋のオヤジは活動には一切関係ない気のいいおっさんで、甥子の友達が家賃払えなくて下宿を追い出されたとか聞けば3,4日くらいは泊めてくれる。」と言っていて妙に納得させられたワケ。
何も、外交や国家的な指針の方向性を変えるような陰謀が豆腐屋の二階で企てられていると云いたいわけじゃない。彼らの言う“インテリジェンス”という後付的な視座が世界情勢を語るに相応しいかちょっと疑わしい気がするというだけのこと。『インテリジェンス ~』の対談はタネを小出しに明しながら進める手品みたいな感じがしてならないのだ。手品はどこまでいっても手品でしかないし、豆腐屋の二階で繰り広げられる議論はどれだけ壮大であったとしても、豆腐屋の二階で結論付けられる定めから逃れられない。

読み終わらない内に本の感想を書くというのもどうかという気はするが、とりあえず“その程度の本なんだから”と言い訳してみる。


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『破無礼』(奥州幕末のハムレット) [演劇]

仙台在住の友人に誘われて8年振りに生で演劇を見た。仙台を拠点に東北弁のシェイクスピア劇を制作・公演している劇団シェイクスピア・カンパニーの『破無礼』。と、ここまで書けば、云うまでもないことかもしれないが、シェークスピアの『ハムレット』をベースに幕末の戊辰戦争下にある仙台藩(劇中ではデンマークになぞらえて“天馬藩”となっている)の悲劇を描いた作品だ。正直を言うと、方言を取り入れた演劇という点で市民のお楽しみクラブの域は越えられないだろうとタカを括っていたのだけれど、イイ意味で完全に裏切られた。非常に良かった。

僕自身、東北生まれの東北育ちでありながら、東北弁独特のイントネーションは田舎者の代名詞という印象が強い。標準語の中にあって際立つ個性(例えば金八先生に出てくる巡査)というか、決して主役には向かない言葉として扱われてきたような気がするし、無条件でそれを受け入れてきた。山田洋次の『たそがれ清兵衛』あたりからそうした印象は少しずつ変わってきた感もあるけれど、やはり貧しさや何ともいえない暗さといったマイナスのイメージは付きまとう。
また、方言特有の発音や訛りだけを強調して単語は共通語を使うというテレビ・映画的台詞まわしに漂う違和感は、観る者の感情移入を阻害し単なる観客に据え置いているのではないかと僕は考えている。この違和感を見事に乗り越えてみせた『破無礼』はまさに、一見の価値有りだ。

ちなみに、『ハムレット』の有名な一説「生くべきか、生くべきにあらざるか。それが問題だ(="To be or not to be , that is the question ! ")」は『破無礼』において「すっか、すねがだ。なじょすっぺ」と訳される。枷を外されたことばの心地よい語感をココ(文章)で伝えきれないのが歯痒い。
兎に角、誘ってくれた友人に感謝!


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web2.0 [雑感]

1997年にはじめて買ったパソコンがIBMのAptiva(本体だけで実に30キロはあろうかというまるで金庫みたいなデスクトップ)だというコトもあるのだろうけれど、それから10年も経たない内(2004年の末)にIBMがPC事業部を聯想(レノボ)に売却すると発表したときには大きな衝撃を受けた。コピュータ業界の潮目が変わりつつある、と。
ダイヤルアップ接続の設定にてこずって、やっとインターネットに繋がったときの感動は忘れもしない。世界に繋がっているという感覚がたまらなく好きだった。ノートパッドにHTMLをベタ打ちしてテキスト系のサイトを立ち上げ、同じようなコトをしている人達とICQを使って意見を交換したり、実際に集まって酒を飲んだりした。そんな充実した日々はやがて常時接続によって日常となり、携帯電話や無線技術の発達とともに世界に繋がっているという特別な感覚はどんどん希薄になって、ついに当然の域を通り越して、気付けばITジャングルの中で息苦しさを感じるまでになった。

ブラウザソフトさえ入れておけば大抵のことが出来るようになり、インターネット越しに関わる人や遣り取りされる金に現実味を感じなくなった頃、IBMがパソコンのスペックに重きを置く時代にケリをつけた。全てをweb上でこなす(web2.0を代表する)ツール、即ちスカイプYouTube、そしてSNSの登場は、インターネットの世界に嘗ての感動とリアルな人間関係を呼び戻すきっかけになると同時に、恐ろしく複雑化された商業主義社会の狡猾な面をソフトに包み込む靄になるのではないかと僕は考えている。もはや選択や厳しい判断を求められることは無い。自らの意思によって必然的に判断し選択するように誘導する技術こそweb2.0の真髄だ。こうしてみると昨今の政治の進め方に酷似しているような気がしないでもない。


蛇足
昔、テキスト系というか日記系というか、まぁそんな類のサイトを開設していたと書いたが、そのサイトの存在意義を象徴するものがアクセス数だったワケ。その時『ReadMe!』というランキングサイトに登録していたのだけれど、懐かしくなって検索してみたら未だにやっていて少し驚いた。今ここに登録している人達は一体何を求めているのだろう?


絶望する子供たち [社会]

イジメによるとされる自殺が相次いでいる。
新聞やテレビはさかんに特集を組んで自殺を思い止まるように訴えているが、空疎な感じがしてしかたない。今、学校で行われているイジメは僕達(オトナ)が目の当たりにしてきたそれとはレベルが違うものなのかもしれない。“イジメに耐え得る強さを身に付けろ”とかいうワケのわからない叱咤もナンセンスだし、“ワタシも昔イジメられたことがある”という告白もなんだかなと思う。

彼らは想像力の欠けたオトナ達に絶望しているんじゃないだろうか?
子供の世界は狭い。が、子供にとってはそれが全てだ。そしてその世界は残念ながら僕達が嘗て生きていたのとはちょっと違う次元にある。彼らは権力にしがみつくだけの無能なオトナを見ているし、失望の末に引きこもる青年や変質者に成り下がる人間、身を売ってまでブランド物を手に入れて自分の居場所を確保しようとする少女がいることを知っている。オトナでさえ希望を見出せない殺伐とした社会に何かを求めろと日々脅迫されて生きているワケだ。剥き出しの本音と形骸化した建前がゴロゴロ転がっている社会に何を見出せというのか?
学校を出てもクソみたいなレールの上を鬱病を背負って歩いていかなければならないし、かといって学校を出なければ社会から疎外される。どっちに転ぼうが結局ツマラナイ現実が待ち受けている。そんな灰色の将来に向けた束の間の猶予期間に困難が生じた時、死を選択するのは必然というものなんじゃないだろうか。

彼らが必要としているのは、体育会系バカの妄言でも目を瞑ってイジメを克服した負け犬の同情でもない。鬱病の診断書でもなければ、軟弱な教師達の謝罪でもないだろう。社会や学校に蔓延した失望を吹き飛ばすに足る絶対的なパワーや信念が存在するのだという確信だ。

守るべきは学校の体制や受験のシステムではないはずだ。今こそ子供の世界を守る為に命を張るヒーローの出現に期待したい。


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脱却と回帰(『たけしの日本教育白書』のことなど) [テレビ]

去年もこの時期に放送したのを思い出しつつ、やめとけばいいものを『たけしの日本教育白書』を見た。今年の主題は“品格”。非常につまらなかった。生バラエティの哀しい性とは云え、酷い内容だ。出演者が放送上ギリギリのラインを手探りしながら進行する様子は伝わってきたが、彼らの発言はどれもが既にネットでは議論され尽くし、今では誰も見向きさえしないものの焼き増しのような感じがするのだ。土俵が違うとは云え、テレビの限界ここに在りといったところか。久米宏の登場でテレビの可能性についてもう少し違った展開を望めるかと期待したが、グダグダを払拭するには至らなかった。2ちゃんねるのアクセスは伸びたのかもしれないが。

さて、前回『三丁目の夕日』について書いたが、こうした映画の登場は、戦争→高度経済成長→バブル経済という一連の浮き沈みを冷静に振り返る余裕がでてきたことを感じさせる。政治不信や教育問題、或いは国際情勢の悪化など不安な要素はまだまだ山積みだが、全体的に見れば良い傾向だと思っている。
時代の主な構成要素は脱却と回帰である。脱却と回帰それぞれのピークにその時代を象徴する出来事があるのだ。大東亜戦争は欧米の外圧からの脱却と明治以前の鎖国思想への回帰と云うことができるだろうし、高度経済成長は戦時中の悲しく惨めな体験からの脱却と明治維新的なダイナミズムへの回帰と解釈できる。バブル経済はちょっと種類が違うかもしれないが、それまでの禁欲的な労働環境からの脱却と階層社会(身分 ⊇ 学歴といった)への回帰傾向がピークに達したモノと見ることが出来るかもしれない。
そして現在、バブル崩壊による不況を敗戦時の混乱に重ね合わせるような形で物事を考える人達が増えているような気がする。豊かさと自由という洗練された牢獄に囚われた我々は、『三丁目の夕日』に描かれた時代への憧れ、或いは郷愁のような共通のプラットフォームから、格差社会に耐え得る精神力を手に入れようとしているのかもしれない。
この先どうなっていくのか?は分からないが、前述の番組における石原都知事と久米宏の議論にあった(或いは宮台真司あたりがよく言っていることでもあるが) 、「次世代の幕開けは“悲劇”によってもたらされる」という考え方からすると、今僕達が立っているプラットフォームはあまりにも頼りないし、その上で一朝一夕に獲得できる郷愁や悲哀の意味などほんの微々たるもの(永遠に2ちゃんねるの域を脱しないもの)だと思えてくる。ま、そもそも、こうした視座の下では今回のタイトルでもある“脱却と回帰”が時代の推進力だなんて考え方は、薪でロケットを飛ばすようなもんだと一蹴されるのがオチだろうけれど。


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『ALWAYS 三丁目の夕日』(監督:山崎 貴) [映画]

映画について書くのは久しぶりだ。映画を観てないってワケではなくて、2時間かそこらの暇が見事に潰れるだけで何の感想もでてこないモノばかり観ていたのだ。そんなこんなで映画館に行く気力も失せつつあった為に、公開当初から話題になっていた『ALWAYS 三丁目の夕日』も結局レンタルで済ませるコトになってしまった。率直な感想は、映画館に観に行く程の価値はないと思うが、レンタル料330円を惜しむ程でもないといったトコロだろうか。可も不可もない“なんでも鑑定団”的なマニア知識の寄せ集めのようなズルイ作りだと思った。
昭和30年代の人情味に溢れる古き良き家族を描いている作品なのだが、高度経済成長の胎動というか希望の萌芽を建設中の東京タワーに託し、時折戦争の記憶をチラつかせるベタな展開は挑戦的な感じが全くない。
それほど遠くない過去を描く作品の難しさは、観る者の生きる世界、つまり約束された(今日的な)豊かさに向かう安心感というベースの設定にある。観る者の価値観に頼り過ぎるということだ。僕の視点から云えば、今日的な安心感からしか発生し得ない郷愁や哀愁は薄っぺらいし、貧弱なストーリーも気に入らないというコトになる。
そういう点でこの作品と対照的なのはやはり崔洋一の『血と骨』だと思う。山崎における現代は「何かが欠けている豊さ」という曖昧なものであるのに対し、崔のそれは「確実に存在する絶望的な状況」というのっぴきならないものであるような気がするのだ。
だからと云って『血と骨』の方がイイというわけでもない。『ALWAYS~』は、高度経済成長を支えた世代が築き上げたものの中で暮らす僕達が忘れかけた感謝の気持ちを取り戻すきっかけになるのかもしれない。


つづく


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処世術 [社会]

処世術と云うほど立派なものではないけれど、生きる指針のようなものは大体学校で身に付けた。教わったコトで今役に立っていることはハナクソほどもないけれど、教師達のお陰で人に期待するコトの虚しさを知り、絶望的な退屈にも耐え得る強靭な精神力を手に入れた。そもそも人を信じていないから誰かに裏切られて深く傷ついたりしないし、騙されて悔しい思いをすることもない。少し寂しい気もするが、そんな大人になった。
今、履修単位の不足と並んでイジメに因る自殺のニュースが話題になっているけれど、イジメにあう人は僕みたいなのとは正反対のタイプが多いのだと思う。親、学校、教師、同級生に対して大きな期待を寄せる素直な子供だ。イジメる側はその期待を知っていて、敢えてそれを裏切り失望の淵に沈んでいく彼の様を嘲笑うワケだ。先日の繰り返しになるけれど、子供は自分の弱さを知っている。故に自分より弱い者を見つけ出す嗅覚は敏感だ。彼のウィークポイントを的確に捉え容赦なく追い込む。大人になるに連れてその嗅覚が一銭の価値も無いことに気が付き、力のある者を探し彼に付き従うことに意味を見出すようになるワケだが、なんとも在り来たりでつまらないサイクルだ。

自らに向けられる期待(プレッシャー)と、自分が周りにかける期待(希望)をうまく調整し、現実とのギャップに折り合いを付けていくことは非常に難しい。そんなモノを小さな背中に負わされた子供達が教室に押し込められて、ツマラナイ教師と顔を向き合わせて退屈な時間を過ごしている。何も起きない方が不自然なんじゃないだろうか。
そもそも、イジメやら何やらのトラブルに耐え忍び、それを乗り越えてまで通う価値が果たして学校にあるか?甚だ疑問だ。


関岡英之について(再び) [雑感]

7月に北のミサイル発射について書いたとき、関岡英之だったらこの件をどう解釈するだろうと考えた。彼の著作『拒否できない日本』は、アメリカが“年次改革要望書”によって日本を政治・経済の面でコントロールしているとレポートしている。公開されている資料の分析を基に書かれているので説得力があり、世間の評価も高い。
先に書いたブログには「関岡なら北のミサイル発射もアメリカの陰謀というまとめ方をするかもしれない」などと軽薄極まりないコトを書いてしまったが、ココで改めたい。関岡は徹底した分析屋だ。恐らくデータが無ければ分析も無い。憶測で物事を語ることに慎重な評論家という点で高い評価を得ているのだと思う。それは、つまり、オーソドックスから外れることなく、分析と理論の裏付けによって結果的に保守主義に辿りついた関岡のスタイルこそ、右傾化する日本社会の待望するものであったのかもしれないというコトだ。本尊の関岡はイイとして、問題は周りだ。彼の著作によってインスパイアされた思想を無自覚にバラ撒き、実生活に反映させる。それはやがて理論を持たない感情をいたずらにスピンするに至る。

星の数ほどあるブログをちょっと覗いただけでも、北朝鮮について相当酷いコトを書いているトコロがある。毎度のことになりつつある朝鮮人学校への嫌がらせのニュースもちらほらでてきた。
ここでアメリカがどうのと云っても仕方が無いのだけれど、北は世界中の裏金をキレイにしてくれる闇の貯金箱だということは明らかになっている。キレイになった金が何処で使われるのか?とても興味深いトコロではあるがココに関わるデータはこの先も出てきそうには無い。

この先は全くの想像。
政治には金がかかり、経済は金で動く。世の中は一握りの政治家と経済人、そして彼らのおこぼれにすがる大多数の一般人によって構成されている。政治家と経済人は損をしないように細心の注意を払う。それは北も日本もアメリカも万国共通だ。一般人はどんな陰謀が画策されているのか、永遠に妄想するだけなのかもしれない。自分の方に火の粉が飛んでこないように祈りながら。


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北朝鮮の隠し球 [社会]

9日、北朝鮮が核実験を行った。これにより世界情勢(とりわけ北を取り巻くアジアの状況)は全く新しい段階に入った。これまでの言葉によるオトナの対話から思想や国家的アイデンティティを懸けたサバイバルステージに足を踏み入れたというワケだ。
北は自国の体制を保持しながら世界にコミットすることを望んでいる。交渉を有利に進める為には手段を選ばない。拉致問題を皮切りに、ミサイル実験や今回の核実験と手持ちのカードを次々と繰り出してくる。ワイドショーなんかに出てくるタレント教授の当たり障りのない話を聞いていると、一見、北は自国の首を自らの手で絞めあげているような気もしてくるが、関係国の輿論が固まらない内に次のボールを投げ込んでいるトコロを見れば案外緻密な計算があるのかもしれない。事実、右に左に揺さぶられる日本のバットは完全に振り遅れている。民主主義国家の宿命だ。
兎に角、北は交渉のテーブルの上に何が飛び出すか分からない“ビックリ箱”を置く事に成功した。突然プルトニウムを搭載した変化球が飛び出すかもしれないし、案外何も入ってないのかもしれない。不安は往々にして判断を誤らせる。
強い警戒心と根拠の無い楽観主義の入り乱れた日本はいいカモかもしれない。核実験を安倍総理の韓国訪問に合わせることで、北は日本に警告を出しつつも、交渉の窓口役に安倍を指名したのではないかと僕は思っている。事ココに至ってはマスコミ報道に真実を見出すことは難しいだろうが、総理の采配を信じつつ、改めて自国について考えてみようと思う。


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